み熊野ねっと

 熊野の歴史や文化、観光名所、熊野古道の歩き方、おすすめの宿などをご紹介しています。

熊野や熊野本宮のスゴいところ、いろいろ

 

熊野本宮大社敬神婦人会総会での講演のために用意した原稿

2014年3月16日(日)に行われた熊野本宮大社敬神婦人会総会での講演のために用意した原稿です。
準備する時間があまりなかったので、これまでのトーク原稿などを組み合わせるような形で原稿を用意しました。

こんにちは。只今ご紹介いただきました大竹哲夫と申します。
「み熊野ねっと」という熊野の魅力を発信しているHPを運営しております。
本日はこのような場にお招きいただき、ありがとうございます。とても光栄に思います。
宮司さんから1時間ほど熊野のことを話してくれませんかとのご依頼がありまして、宮司さんや神主さんの前で話をさせていただくというのはたいへんおこがましいことなのですが、たいへん有難いお話だと思いましたので、引き受けさせていただきました。

私は本宮町に住んでます。ここから車で5分ほどの所です。ですので時々私の顔は見るよという方もいらっしゃると思うのですけれども、私が何をしているのかはご存知でない方が多いと思いますので、本日は、私の自己紹介をしながら、熊野の魅力、熊野のスゴさについてお話しさせていただこうと思っています。よろしくお願いいたします。

言葉からもおわかりだと思いますが、私は他所から来た人間で、もともとは神奈川県藤沢市、いわゆる湘南と呼ばれる所の出身です。本宮町に来たのは20年ほど前のことで、15年ほど山の仕事をしました。5年ほど前にちょっと体を壊して山の仕事は止めて、今は熊野の魅力を伝えることで何とか生活できないかなと頑張っているところです。

私には何の肩書きもないので、自らは熊野エヴァンジェリストという肩書きを名乗っています。
エヴァンジェリストというのはもともとキリスト教の伝道師のことで、今は企業の製品のよさをPRする仕事をする人のこともエヴァンジェリストというので、私は熊野のよさをPRしているということで熊野エヴァンジェリストを名乗っています。

私がしていることは熊野のPR。熊野ってすごい所なんだ、熊野ってすごいんだということを情報発信することです。
西は和歌山県田辺市から東は三重県紀北町まで広い意味での熊野の紹介をしています。神話の時代から近現代まで。古典文学から最近の小説やマンガや音楽まで。さまざまな熊野に関連する物事を情報発信しています。

インターネット上での情報発信が中心ですが、最近はトークイベントなどでお話しさせていただいたり、ごくたまにですが、ご依頼があればテレビにも出させていただいたりしています。

インターネット上ではてつと名乗っていますので、そちらの方から私のことを知った人は大体てつさんとかてつくんとかてっちゃんとか呼んでくれます。み熊野ねっとのてつさんとかてっちゃんとか覚えていただけたら嬉しいです。

インターネットで、何か熊野のことを詳しいことを調べようと検索したら、だいたい私が作っているページが上位に出てくると思います。み熊野ねっとだけで4000ページ以上。その他、熊野比丘尼のサイト熊野別当湛増のサイト、熊野川町の音川出身の平忠度のサイト紀伊続風土記のサイトなど、複数の熊野関連のサイトを運営しています。

トークイベントに関しては、最近は本宮の道の駅で2ヶ月に1回くらいのペースで「哲夫の部屋」という対談形式のトークイベントを行っています。

テレビに関しては去年はテレビ和歌山さんの番組に2回出させていただきました。
「ちゃぶ台」というトークバラエティー番組と、「私の熊野古道」という熊野古道の番組の2本に出演させていただきました。「ちゃぶ台」には宮司さんも出演されています。
去年は全国ネットの番組には出れなかったのですが、一昨年はNHKのあさイチという朝の番組に出させていただきました。

私は以前はほとんど人前に出ていくことはなかったのですが、2011年の3.11と紀伊半島豪雨災害がきっかけになってもっと表に出ていかなきゃと思うようになって、ご依頼があれば積極的に出ていくようになりました。

私が話せることというのは熊野のことだけです。
熊野のことしか話せないんですが、熊野というのはとても広くて深いので、いろいろなテーマでお話をすることができます。

東日本大震災の1ヶ月後くらいに神奈川や東京で熊野のことを話させていただいたことがあったのですが、そのときお客様の1人から「癒されました」という感想をいただきました。東京近郊の方々がお客様でしたので、あんな大地震のあとで、余震も続くし、とてもストレスを感じて生活していて、それで私の話を聞いて、心がほぐれましたとかおっしゃってくださいました。

私は熊野のことしか話していないんです。その熊野の話が人の心を癒すことができる。そのときは改めて熊野のスゴさを思い知らされました。

熊野はいろいろとスゴイんですが、これから熊野のスゴいところをいくつか挙げていきますが、まず何がスゴイって、歴史がすごいです。

平安時代末期に院政という新しい政治の仕組みを作った白河上皇は熊野を9回詣でています。その後の鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回。往復1ヶ月くらい掛かる熊野詣を1年に1回くらいは行っています。後鳥羽上皇なんて10ヶ月に1回くらいのペースで熊野詣を行っています。上皇だけでなく、そのお妃さまも熊野を詣でています。

2011年のNHKの大河ドラマの「平清盛」が描いた時代が、ちょうどその辺りで、ドラマのなかでも度々熊野が登場しました。

平清盛も何度か詣でていますし、子の重盛も孫の維盛も何度か詣でています。清盛の盟友の信西も、西行法師も熊野を詣でています。

その当時の国を動かす人たち、今で言えば内閣総理大臣や閣僚、官僚のような人たちが毎年毎年、熊野を詣でたのです。

日本の三大聖地といえば「伊勢、熊野、出雲」といわれますが、日本の歴史を考えたら熊野が圧倒的にスゴいです。
伊勢も出雲ももちろんそれぞれスゴいのですが、日本の歴史や文化に与えた影響力の大きさということで考えたら圧倒的に熊野がスゴい。

その熊野の中でも熊野三山の中心的存在であった本宮は本当にスゴいんです。後白河上皇は34回熊野を詣でていますが、新宮那智を詣でたのは15回。残りの19回は新宮と那智を略して本宮だけを詣でて熊野詣を済ましています。そのことからも、本宮が熊野三山の中心であったことがわかります。

熊野のことをよく知る人は、熊野のことを、日本の原郷、日本人の心の故郷、日本の核心、日本の中心などと言ってくれます。熊野は日本にとって特別な場所です。

熊野は日本の宗教の中心地であり、日本の文化に熊野はさまざまな影響を与えています。

日本の文学を代表するような「平家物語」は熊野信仰を広めるためのような物語です。

「平家物語」の冒頭、巻Ⅰには「そもそも平家がこれほど繁栄したのは熊野権現の御利益のおかげであると噂された」というようなことが書かれています。

平家物語を語った琵琶法師の総本山は熊野本宮近くにあった大智庵というお寺だといわれます。

全国各地にある伝統芸能の中には熊野信仰が関係しているものがいくつもあります。

日本で最初に国の重要無形民俗文化財に指定された愛知県の奥三河の花祭は熊野修験が関わっています。やはり国指定重要無形民俗文化財である青森県東通村の下北の能舞も熊野修験が関わっています。
東北地方では獅子舞のことを権現舞といいますが、獅子頭に熊野権現を勧請して舞って悪魔払いをしたというのが始まりです。

盆踊りというのは、時宗という鎌倉新仏教が行った踊念仏がその原形だといわれます。時宗の開祖は一遍上人。一遍上人は熊野本宮に籠って熊野権現の教えを夢で受けて、その結果、時宗という新しい宗派が作られることになりました。ですので、熊野本宮なしに時宗はないし、盆踊りもなかったということです。熊野が精神的なルーツになっている。

時宗に関わりを持つ人たちは阿弥号を名乗りました。観阿弥、世阿弥、能阿弥、相阿弥、音阿弥、善阿弥 、千阿弥など。いま名を挙げた人たちは能や茶道、華道、庭園作りなどの芸能などで活躍した人々です。それらの日本文化に影響を与えた人々も時宗という仏教を介して熊野が精神的なルーツになっています。

熊野信仰を全国に広めたのは神主さんではありません。平安時代には熊野山伏であり、鎌倉室町頃には琵琶法師であったり、時宗のお坊さんであったり、戦国時代には熊野比丘尼という女性宗教者であったり。他の宗教の人たちや芸能者が熊野信仰を広めてくれた。これも熊野のスゴいところです。

熊野信仰というのは神様と仏様を一体にして祀りました。
熊野権現といいますけれども、権現とは仮に現われたという意味。何が仮に現われたかというと仏が仮に神様の姿で現われた。

異なる宗教を一体のものをするというのは、世界的にはありえないこと。

お寺と神社が隣あってあるというのは、今でも熊野地方では所々で見られる光景ですが、これも世界的に見たらあり得ないスゴイことです。キリスト教の教会とイスラム教の礼拝堂が隣あってあるというのはあり得ません。

熊野古道というのもスゴイです。高野山と熊野本宮を結んでいる。仏教真言密教の聖地と熊野。吉野と熊野。修験道の聖地と熊野。伊勢と熊野。同じ神道とは言ってもまるで違う伊勢と熊野。

イスラム教の聖地とキリスト教の聖地を結ぶ巡礼の道なんてあり得ないですし、同じキリスト教の中でもプロテスタントの教会とカトリックの聖地を結ぶ巡礼の道というのもあり得ないです。世界的にはあり得ない奇跡的なことが日本では起こった。その奇跡を体感できるのが熊野古道です。

女性の参詣を早くから積極的に受け入れたというのも熊野のスゴさです。

伏拝王子で、和泉式部が生理になって泣く泣く参詣を諦めた。その日の夜の夢に熊野権現が現われてかまわないから来いと。そこで和泉式部は熊野本宮を参詣することができたというお話が伝わります。

昔、日本では法律的に国家的に、死と血と出産の3つを不浄なものと規定していました。しかし、熊野ではそんなの気にしないと。
熊野が中央とは異なる価値観を持っていることを堂々と示している、素晴らしいエピソードです。

似たような話が熊野の霊域の入り口とされた滝尻王子でもあって、身籠っていた女性が熊野詣に来て、急に滝尻王子で産気づいて出産した。で、参詣を諦めたのですが、その日の夜の夢に熊野権現が現われて、赤子を滝尻の岩屋に置いてそのまま参詣を続けなさいと。そのお告げに従って、参詣することができて、滝尻に戻ってくると赤子も無事に育っていたというお話が伝わります。

これも出産を不浄とするという法律なんて熊野は気にしない。法律的には7日間の謹慎なのですが、そんなのかまわないから来いということで、これも熊野が中央とは異なる価値観を持っていることを堂々と示しています。

中央と異なる価値観を持っていたことに熊野の価値があったのだろうということだと思います。

全国には北は北海道から南は沖縄まで熊野の神様をお祀りする神社がおそらく5000社ほどあります。それほど多くの熊野神社が日本各地にあるのは熊野が日本人の心の拠り所であったということです。
み熊野ねっとでは全国熊野神社参詣記というコーナーがあって、全国各地の熊野神社を訪れた方が参詣の記録を私にメールで送ってくださって、それを掲載させてもらっているのですが、現時点で1789社の熊野神社の参詣の記録を掲載しています。

いま本宮の道の駅に種子島のイモ焼酎やお菓子が置かれているコーナーがあるのですが、種子島にも熊野神社があります。熊野浦という海岸があり、そこは古来神域とされていたとか。種子島に鉄砲が伝来してその7ヶ月後には紀州にすでに鉄砲が渡ってきたということですから、紀州と種子島のつながりが相当強いものだったことがわかります。
日本の各地と熊野は繫がっています。これも熊野のスゴいことです。

種子島の熊野神社の御神体は熊野から持ち帰った石ですが、熊野では岩や滝や島や森そのもの、自然のものを御神体とする神社が現在も残されています。
有名な所では、那智の滝神倉神社とか、古座川の河内神社とか、田辺湾に浮かぶ神島とか。
本宮町にも岩を祭る神社はあって、請川村の産土神であった木葉神社とか、津荷谷にある黒尊仏とか。本宮のちちさまとか。

私はいま、熊野を世界ジオパークにしようという取り組みに少しだけ協力させていただいています。ジオパークというのはジオ、大地、土地、地域の地質地形を教育や観光に保全しながら活用して地域の活性化につないでいこうという取り組みです。
熊野は地質地形をそのまま御神体として祀っている神社がある。岩が人の心と繫がっている。信仰と繫がっている。これは他の地域のジオパークにはない魅力です。

いま和歌山県側で南紀熊野ジオパーク、三重県側で東紀州ジオパークと別々に取り組んでいますが、世界ジオパークにするときには合体させることになると思います。和歌山県側のジオパークに飛び地の北山村があるので、国内のジオパークの場合、飛び地があってもいいのですが、世界ジオパークの場合、飛び地が認められないので、いずれは合体して世界ジオパーク認定を求めていくことになると思います。

自然のものを御神体として祀る、自然崇拝的なものが今も残されているというのは本当に貴重なことです。

知れば知るほど、熊野ってスゴいということがわかってくるのですが、そのスゴさをあまり理解していない人も多いのかなと思います。
なぜそうなってしまったのかというと、大きな原因としては明治時代に熊野がこれまで大切にして来たものがことごとく否定されたということがあると思います。

明治時代の初期には神仏分離が行われました。
熊野という土地は神さまと仏さまを一体のものとして祭る神仏習合で盛り上がった聖地です。
それが神仏習合なんてダメということになった。神さまと仏さまを一体のものとして祭るというのは日本人のなかで自然発生的に生まれて来た信仰のあり方だと思うのですが、その神仏習合によって熊野は日本有数の聖地となったのに、それが否定された。

神仏分離令に続いて修験禁止令が出されて、修験道も禁止されました。
平安時代の院政期、上皇たちをご案内したのは修験者です。熊野にとって修験者の存在は大きかった。その修験道が明治の初期に禁止となりました。

明治の末期には神社合祀が行われました。
神社は1町村に1社だけにまとめなさいという神社合祀令という国の命令で、残す1社以外はすべて潰すという、めちゃくちゃなことが明治末期に行われました。
熊野古道沿いに田辺から本宮までの間に二十数社の王子社がありましたが、そのうちで合祀されずに残ったのは八上王子滝尻王子の2社だけ。その他の王子社はすべて潰されました(八上王子については一度合祀されて廃社となり、その数年後に復社を果たしたという経緯があるので、正確に言えば合祀されずに残ったのは滝尻王子の1社だけ)。いま熊野古道は世界遺産ですが、明治時代には何の価値もないとされました。

明治時代というのはわずかに45年ですけれども、まず明治の初期に神仏分離があって、明治の末期には神社合祀あって、明治時代の45年で、熊野は力を失いました。

現在、最も神社の数が多い都道府県は新潟県で、4772社。二番目に多いのが兵庫県で、3863社。逆に、最も神社が少ない県は沖縄県で、13社。二番目に少ないのが和歌山県で、444社。
明治末期から大正にかけて行われた凄まじい神社合祀のために和歌山県は全国的にとても神社の少ない県となってしまいました。

神社合祀の実施は知事の裁量に任されたので、都道府県により合祀を激しく行った場所、あまり行わなかった場所がありました。
新潟県は神社合祀に消極的で、そのために現在、最も神社が多い県となっています。
それに対して熊野地方を含む和歌山県と三重県ではおよそ九割の神社が潰されるほどの激しい合祀が行われました。
神社合祀令が施行される前年(明治38年 1905年)には、和歌山県には5836社の神社がありました。それが神社合祀令が施行されて7年後(大正2年 1913年)には442社に。和歌山県では10分の1以下までに神社が減らされました。
お隣の三重県では、10413社あった神社が7年後には1165社に。三重県でも10分の1程度までに神社が減らされました。

本宮町では60社ほどの神社があってそれが4社にまで減らされました。

こういうひどいことが明治時代に行われました。
熊野にとってはほんとうにひどい時代でしたが、その時代に南方熊楠が熊野にいたということは不幸中の幸いともいえることでした。

神社合祀で神社がどんどん潰されていった明治の末期に、神社の森を守ろうと奮闘したのが南方熊楠です。合祀されずに残った八上王子と滝尻王子の2社も、熊楠が保護に関わった神社です。野中の一方杉も熊楠が守りました。
熊楠は今から百年ほど前にエコロジーという言葉を使って神社合祀に反対して自然保護運動を行いました。
結果としては和歌山県ではおよそ9割方の神社が神社合祀で潰され、和歌山県は全国で2番目の神社の少ない県になったということで、熊楠の自然保護運動は失敗だったかもしれませんが、そのときに熊楠が行ったこと、書き記した文章、わずかながらも守ることができた神社の森は熊野や日本にとってとても貴重な宝物です。

南方熊楠のサイトも運営しておりまして、それが南方熊楠顕彰会という熊楠の功績を世に広く伝えていこうという会の方の目に留まり、3年ほど前から顕彰会の委員をさせていただいていまして、熊楠グッズの制作等に関わらせていただいております。
南方熊楠に関しては本を出したいなあと思っていまして、いま原稿を執筆しているところです。

熊野ってすごい、スゴイといいながら、私が何を目標としているのかというと、大きな目標としては日本の未来をよくしたいということです。

日本が動くとき熊野が動く、熊野が動くとき日本が動く、という言葉があります。
日本の歴史が動くとき、その背後で熊野がうごめいている。

神武東征の折にはヤタガラスが神武を大和に導きました。源平の合戦においては熊野水軍が平家を壇ノ浦に沈めて、平家の世を終わらせ、源氏の世が始まりました。

そもそも源平合戦の初戦は熊野で行われました。後白河法皇の皇子以仁王が平家打倒の命令書を出してから最初に行われた合戦が、平家方の田辺・本宮、対源氏方の新宮・那智の合戦です。

日本の歴史が動くとき熊野が動くんです。熊野が動くとき日本が動くんです。

承久の乱、鎌倉時代末期の熊野水軍による反幕府一斉蜂起、南北朝の動乱。
勝つ側に付くにしろ負ける側に付くにしろ、日本が動くとき熊野が動いています。

東日本大震災が起こり、日本の進むべき方向は変わった。多くの人たちがそれを感じています。

東日本大震災復興構想会議の特別顧問をつとめられた梅原猛先生は「熊野から、自然との共存を根底においた生き方、思想を発信せよ」ということをいわれました。生命誌の研究されている中村桂子先生は「紀州が3.11以降の日本再生のリーダーになってください」ということをいわれました。
また女優の秋吉久美子さんは「熊野は人類の危機解決のヒントを与えるシンボル的な場所だ」というようなことをいわれました。

熊野をよく知っている人は熊野ならそれができると思うのです。

熊野は再生の地、蘇りの地と言われますが、ならば、やはり熊野が日本の再生に大きな役割を果たさなければならないのだと思います。熊野ならば、それができるだろうと思いますし、多くの方も熊野に期待してくれています。

日本が再生するには、人々の価値観の転換が必要です。今後、人々の価値観の転換を促す場が熊野となるであろうと。熊野が日本の未来をよくしていくきっかけとなる場所になる。そのようにしたいと望んでいます。

梅原猛先生がおっしゃられたように「自然との共存を根底に置いた思想、生き方を熊野から発信する」こと。
WWF(世界自然保護基金)が提案したマグロ資源の持続可能な利用を求める署名に現在日本の企業として唯一賛同しているのが勝浦の水産加工業者の脇口水産さんですが、これも人々の価値観の転換を促す取り組みのひとつです。そのような取り組みを熊野に暮す人々や多くの事業者さんたちが行うことができたらと思います。

熊野古道は明治以降、価値のないものとして否定されてきました。和歌山県内のほとんどの王子社が潰され、戦後間もなくには熊野本宮大社ですら水没する巨大ダム計画までもが立てられました。

それが今は世界遺産。世界の宝と認められるようになりました。
熊野三山や熊野古道が世界の宝となれたのは、日本の未来や世界の未来に熊野が必要なんだということだと思います。日本の未来、世界の未来に対して熊野が何らかの役割を果たせということなのだと思います。

私ひとりができることは本当にちっぽけなことですが、熊野には大きな力があります。

熊野に残る自然崇拝や神仏習合の痕跡、南方熊楠が守った神社の森などには、人々の心を揺さぶる、人々の心を震わせる力があります。

私にできることは熊野ってすごいんだと情報発信することだけですが、それがささやかながらも地域のためになり、日本や世界の未来のためになり、自分のためにもなる。そう信じて活動しています。

てつ

2014.3.21 UP

 

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