■ 熊野の説話 |
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◆ 鳥羽上皇の熊野御幸 |
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鳥羽天皇が20歳という若さで譲位したのは、祖父・白河上皇(1034〜1129)の意志によります。院政により専制政治を行っていた白河上皇にとって、孫の鳥羽は成人して扱いにくくなったので、代わりにひ孫の崇徳を即位させたのです。 鳥羽の譲位により白河・鳥羽という二人の上皇が出現することになりましたが、実権は依然、白河上皇が握っていました。 白河上皇は43年の在院期間中に9回の熊野御幸を行っています。単純に計算すると、4年10ヶ月に1回のペースですが、1回目から2回目まで26年の間が開いており、2回目以降から計算すると、およそ1年半に1回のペースになります。 1129年、白河上皇が崩御すると、その巨大な権力と財力を鳥羽上皇が譲り受け、院政を開始。20歳の若さで退位させられて不満この上なかった鳥羽上皇は、権力を握ると、白河院と同じように専制君主として振る舞います。 次の皇位継承者として崇徳の子が考えられましたが、崇徳を嫌っていた鳥羽上皇は、待賢門院との間の第四皇子(崇徳の同母弟)の後白河天皇を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子とします。 なぜ鳥羽上皇は自分の長男である崇徳をそこまで嫌っていたのでしょうか。 鳥羽上皇の妃・待賢門院 璋子は、白河上皇の寵妃・祇園女御の養女であり、璋子にとって白河上皇は父親のような存在でした。しかし、白河上皇は璋子とまで性的関係を結んでしまいました。 鳥羽天皇は藤原忠実の娘・泰子を入内させたいと考えていました。しかし、白河上皇の反対によって諦めるより他ありませんでした。 そして、その后が第一皇子(のちの崇徳天皇)を生みますが、その子はじつは祖父の白河上皇の子であると噂され、鳥羽の耳にもその噂が入ります。 白河院崩御後には、待ちかねていたかのように、高陽院 泰子を入内させ、白河院にうとまれ陰棲していた泰子の父・藤原忠実を重用。反白河体制で院政を行います。 さて、白河上皇から院政を引き継いだ鳥羽上皇ですが、白河院のおよそ1年半に1回のペースの熊野御幸までも引き継ぎます。 1143年の10回めの御幸の折には本宮の神前にて金字で一切の経律論を書写せんと誓いました(この前年、鳥羽上皇は出家し、法皇となりました。法皇となって最初の熊野御幸に、鳥羽は崇徳を同道させました。これが崇徳の最初で最後の熊野御幸となりました)。 保元の乱を描く軍記物語『保元物語』にはこんなお話が。 (法皇熊野御参詣 並びに御託宣の事) 久寿二年の冬のころ(1155年)、鳥羽法皇が熊野へご参詣することがあった。 史実としては1153年が最後の熊野御幸です。1155年7月に近衛天皇が崩御、1156年7月に鳥羽院崩御。物語として、この2つの崩御の間にこの話を入れようとしたための虚構と考えられます。 証誠殿(本宮の本殿)の御前で通夜申しなさったときに、夜半ばかりのころ、神殿の御戸を押し開いて、白く美しく子供が左の手を差し出して、繰り返し繰り返し三度なさって、「これはいかに、これはいかに」と仰せになったという、ご夢想の告があった。 鳥羽法皇は大変驚いてお思いになって、ご先達(熊野参詣を先導する熊野山伏)に仰せになって、「ここによい巫女(かんなぎ)はいるか。お呼びして、権現様を勧請し申し上げよう」と仰せられたので、元は美作(みまさか。岡山県北部)の国の住人のイワカノ板(イタは熊野の巫女のこと)といって、熊野山内無双の巫女をお呼びになって参上させた。「ご不審のことがある。すぐに占い申せ」と仰せられたので、寅の刻(午前4時頃、およびその前後2時間)より権現を降ろし申し上げようとするが、、正午過ぎまでお降りにならない。人々は目をすまし、どうしたのだと見ているところに、しばらくして権現はお降りになった。 巫女は鳥羽法皇に向かい奉って、占いの結果を歌によって表わした。
といって、左の手をさしあげて、繰り返し繰り返しして、「これはいかに、これはいかに」と申し上げる。 熊野権現は巫女を通じてご託宣を下しました。
『保元物語』に戻って、 「本当に権現様の御託宣である」とお思いになって、急いで御座所をはずし下座にさがられなさった。お手をあわせて、「私が申し上げるところはこれです。さて、これはどのようなことでございましょうか」と申し上げなさると、「来年、必ず崩御するだろう。その後は、世の中は手の裏を返すがごとくになることだろう」と託宣があったので、法皇をはじめとして、御所におつかえする公卿殿上人は、皆涙をお流しなさって、「さて来年はいつのころにか」と申し上げなさると、巫女はとりあえず、
「夏の終わり、秋の始め」とおおせられた。公卿殿上人は、「どうにかして、そのご難を逃れ、お命を延びさせなさることができないだろうか」泣く泣く問い申し上げたところ、「前世の業で定まった寿命である。我の力も及ばない」といって、権現様はやがてお上がりなさった。法皇は御心中、悲しくお思いになった。還御の御有り様は、心細く思われた。 そして、この熊野のイタの預言通りに「夏の終わり、秋の始め」の7月2日(陰暦では7〜9月が秋)に、ついに鳥羽上皇は54歳で崩御しました。そして、また、預言通り、世の中は手のひらを返すようなことが次々に起こるのです。 (てつ) 2001.9.26 更新 ◆ 参考文献
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