那智といえば、なんといっても那智大滝(なちのおおたき)です。
一般に「那智の滝」といわれ、「一の滝」ともいわれるこの滝は、 落差133mの日本一の直瀑です。
那智大滝は、今でも素晴らしい滝ですが、滝の背後や周囲の山々がすべて原生林に覆われていた昔の姿を想像すると、遥かに神々しい姿であったに違いありません。
滝の落ち口の岩盤に3つの切れ目があって、3本になって滝が落ちることから「三筋の滝」ともいわれます。
滝の落ち口の幅は13m。
滝の落ち口には注連縄の張られていますが、この注連縄は毎年2回、7月9日と12月27日に神職の手によって張り替えられます。
滝の右手には「那智原始林」と呼ばれる原生林が広がっていて、国の天然記念物に指定されています。32haというわずかな面積ですが、那智原始林は和歌山県下唯一の原生林で、とても貴重な照葉樹林の森です。
滝壺の深さは10m。南方熊楠によると大滑落岩塊のため三分の一強埋もれてしまったそうで、昔はもっと広く深かったのが、滝の上の原生林を濫伐したために岩石が落下し、滝壷が埋もれて現在のように小さく浅くなってしまったらしいです。
また、那智大滝の上流には、さらに「二の滝」「三の滝」と呼ばれる美しい滝があります。
二の滝は落差20mほどの優美な女性的な滝で「如意輪の滝」ともいわれます。この二の滝の近くに花山法皇(968〜1008)は「円成寺(円城寺とも書きます)」と名付けた庵を結び、那智山中で千日の修行を行いました。また、平清盛(1118〜81)は後白河上皇(1127〜1189)の初めての熊野御幸(1160)のお供として那智を詣でた折、二の滝において開運招福を祈願したと伝えられ、西行(1118〜1190)もまた二の滝を訪れています。
二の滝の上流にある三の滝は、落差15mほどで「馬頭観音の滝」ともいわれます。
那智山中には「那智四十八滝」といって48の滝があり、修験者により滝行が行われてきました。
二の滝
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三の滝
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熊野那智大社は滝を神とする自然崇拝からおこった社です。
社伝には、神武天皇が熊野灘から那智の海岸「にしきうら」に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのを見て、この大滝をさぐり当てられ、神としておまつりになった、とあるそうですが、神武東征以前から熊野の原住民が神としてまつっていたと考えるのが自然でしょう。
大滝には現在、「熊野那智大社別宮飛瀧神社」が鎮座し、大己貴命(おおなむじのみこと)が祭られていますが、神社とはいっても本殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形になります。社殿がないことからもはっきりとこの大滝が御神体であることをわからせてくれます。かつての熊野の自然崇拝の有り様を今に伝えている神社のひとつです。
神仏習合が熊野信仰の特徴のひとつでしたが、大滝に祀られた大己貴命の本地仏は千手観音だと考えられ、飛瀧権現(ひろうごんげん)と呼ばれました。かつては那智大滝の岩壁には千手観音の磨崖仏が彫られていて(地震により崩落してしまいましたが)、大滝近くには千手堂が建っていたそうです。
那智の主神・牟須美神(ふすみのかみ)の本地仏も千手観音であり、那智は観音浄土「補陀落(ふだらく)浄土」とみなされ、那智の浜に面していた補陀洛山寺が拠点となって、補陀落渡海という一種の入水往生がしばしば実践されました。
本地仏と権現について少々。
6世紀に伝来された仏教ですが、次第に神道と融和していき、平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が浸透していきます。
本地垂迹思想とは、神の本地(本体)は仏であるという考え方。仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です。もとの仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹といいます。また、その仮に現れた神のことを権現といいます。
平安末期、12世紀には、熊野三山それぞれの12の社殿に祀られた神々は熊野十二所権現と呼ばれ、すべて本体は仏や菩薩であると考えられました。
本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、那智の牟須美神は千手観音、新宮の速玉神は薬師如来を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土、那智は南方補陀落浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。
話を那智大滝のほうに戻して、那智大滝にいたる参道脇には平安末期以降、数多くの経塚が営まれました。
経塚とは、仏法が滅んだ後の世のために、経典や仏像を地中に埋納し、弥勒菩薩が出現するという五十六億七千万年後のはるか未来にまで保存する目的で造営された仏教遺跡のことです。
大正年間に、大滝への参道口の左、「沽池」と呼ばれる所から発見された経塚からは、2000点ほどに及ぶ仏教遺物が出土しました。
「那智経塚」と呼ばれるそれは、平安から鎌倉、室町にわたって継続的に埋納が行われたもので、埋納品には飛鳥・白鳳時代に作られた古仏まであるという貴重なものであり、日本三大経塚(乗鞍・高野・那智)のひとつとされるほど規模の大きな経塚でした。
大正7年の第1回の発掘の出土品はほとんどすべて宮内庁所有のものとなり、東京国立博物館に保管されています。その後に行われた数度の発掘で出土されたものの一部が熊野那智大社の宝物殿にて公開されています。
経典や仏像をはるか未来に残すのにふさわしい霊地とされた那智の大滝。那智は、観音信仰の霊場であるとともに、弥勒信仰の一大霊場でもあったのです。
しかし、この那智の神仏習合の信仰形態も、明治元年(1868 )の神仏分離令によって破壊されてしまいます。那智大滝の飛瀧権現では千手堂が廃され、仏教・修験道を廃した神社「飛瀧神社」となりました。
さて、那智大滝を拝んだあとは、青岸渡寺&熊野那智大社へ。
土産物店が軒を連ねる参道の石段を10分ほど登っていくと、標高約500mにある那智大社および青岸渡寺の境内にたどりつきます。途中、参道はふたつに分かれますが、どちらの道を行っても結構です。左の大鳥居をくぐると熊野那智大社、右の道を行くと仁王門を経て青岸渡寺にたどりつきますが、熊野那智大社と青岸渡寺は隣接して建っていますので、どちらの道を行かれてもかまいません。
神社と寺院が隣接して建つという、熊野三山中もっとも神仏習合時代の名残りを残している那智。
那智熊野大社は古くは「那智山熊野権現」「那智権現」などと呼ばれていました。
現在、熊野那智大社という神社と那智山青岸渡寺という寺院が軒を並べていますが、かつての那智は神社と仏寺とに分離できるようなものではありませんでした。神と仏は渾然一体とし、区別できませんでした。
那智山青岸渡寺は古くは如意輪堂と呼ばれ、那智権現は最盛期には7寺36坊を有し、熊野修験の一大本拠地となっていました。
しかし、明治の神仏分離令は、もともと一体であった神仏習合の霊地に、神か仏かのどちらか片方を選択するように命じました。本宮も新宮も神を選び、仏を捨て、寺院は取り壊されました。那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行いました。いくつもの仏寺や坊舎が取り壊されました。那智権現は明治4年(1871)に「熊野那智神社」と称し、仏教・修験道を排した神社となりました。
本堂であった如意輪堂は、西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊しはされませんでしたが、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され、空堂とされました。
しかし、その後、山内の人々の願により明治7年(1874)、神社側から独立。「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興されました。
青岸渡寺(如意輪堂)の創建は、仏教伝来以前の仁徳天皇の御代(313〜399)にインドから熊野に漂着した裸形上人(らぎょうしょうにん)が那智大滝にて滝修行中、滝壷から八寸(約24cm)の観音像を感得し、草堂をむすんでこれを安置したのが始まりと伝えられています。その後、7世紀頃に大和国から生仏という僧が来て、一丈(およそ3m)の如意輪観音の木像を彫り、裸形上人が得た観音像を胸に納めて本尊とし、正式に本堂が建立されたそうです。本尊を如意輪観音とすることから如意輪堂という名も付けられました。
後に青岸渡寺(如意輪堂)は、西国三十三所霊場の第一番札所となります。
西国三十三所巡礼は、大和の長谷寺の徳道上人によって718年に始められ、その後、衰微し、花山法皇によって再興されたと伝えられています。那智での一千日の修行を終えた花山上皇は、西国三十三ケ所観音霊場巡礼の旅に出、各地で歌を詠んだ。それが御詠歌のはじまりで、那智山青岸渡寺(せいがんとじ)は三十三ケ所巡礼の第一番札所となったとも伝えられています。
ちなみに那智山青岸渡寺(如意輪堂)の御詠歌は、
補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つせ
青岸渡寺の現在の本堂は、織田信長の焼き討ちにあったのを豊臣秀吉(1536〜11598)が1590年に再建した桃山様式の建築で、南紀最古の建築物です。重要文化財に指定されています。
さて、熊野那智大社について。
那智大社は、正面に五棟五殿、左に一棟八殿、併せて十三殿が「┏ 形」に配置されています。
正面向かって右手が第一殿で、左端が第五殿です。左側にあるのが八社相殿の第六殿。
地形的な制約のため本宮大社や速玉大社のように横一列には配置されず、また第一殿には大滝の神がまつられ、第二殿以下に熊野十二所権現がまつられています。
熊野那智大社の祭神は以下のとおり。
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社殿名 |
祭神 |
本地仏 |
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| 第一殿 |
滝宮 |
大己貴命 |
千手観音 |
飛瀧権現 |
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| 第二殿 |
証誠殿 |
家津御子大神
国常立尊 |
阿弥陀如来 |
三所権現 |
熊野十二所権現 |
| 第三殿 |
中御前 |
御子速玉大神
伊弉諾尊 |
薬師如来 |
| 第四殿 |
西御前 |
熊野夫須美大神
伊弉冉尊 |
千手観音 |
| 第五殿 |
若宮 |
天照大神 |
十一面観音 |
五所王子 |
第六殿
八神殿 |
禅児宮 |
忍穂耳尊 |
地蔵菩薩 |
| 聖宮 |
瓊々杵尊 |
龍樹菩薩 |
| 児宮 |
彦火火出見尊 |
如意輪観音 |
| 子守宮 |
うか草葺不合尊 |
聖観音 |
一万宮
十万宮 |
国狭槌尊
とよくむぬのみこと |
文殊菩薩
普賢菩薩 |
四所明神 |
| 米持金剛 |
泥土煮尊 |
釈迦如来 |
| 飛行夜叉 |
大戸道尊 |
不動明王 |
| 勧請十五所 |
面足尊 |
釈迦如来 |
那智は、熊野十二所権現に、大滝の神、飛瀧権現を合わせてまつるため、「熊野十三所権現」とも呼ばれます。)
また、熊野那智大社の主神は、正面向かって左から二番目の第四殿にまつられている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)で、結宮(むすびのみや)とも呼ばれ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同体とされます。
社殿は、かつては大滝の近くあったらしく(「那智経塚」の近くにかつての社殿があったと考えられています)、仁徳天皇五年(317年)に現在地に遷されたと伝えられ、平重盛が造営奉行となって社殿を整え、やがて織田信長の焼き討ちにあったのを豊臣秀吉が再興。江戸時代に入って亨保・嘉永の大改修が行われました。
境内には、樹齢約850年と推定される樟の大木が枝を広げています。幹には人がなかに入れるほどの洞ができています。平重盛が造営奉行をした折、手植えしたものと伝えられています。
毎年7月14日に例大祭(那智の火祭り)が行われます。那智の火祭りについてはそまのおさんぽフォトアルバムをご覧ください。
(てつ)
2002.4.28 UP
2002.4.30 更新
2002.6.16 更新
2002.8.30 更新
◆ 参考文献
加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』 神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版 梅原猛『日本の原郷 熊野』 とんぼの本 新潮社
中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』 河出文庫
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