■ 熊野の説話 |
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◆ 平家物語11 湛増、壇ノ浦へ |
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『平家物語』巻第十一、「鶏合壇浦合戦」より熊野関連部分を現代語訳。 熊野別当湛増(たんぞう)は、平家につくべきか、源氏につくべきかと言って、田辺の新熊野(※たなべのいまぐまの:現 闘鶏神社※)で御神楽を奏して権現を祈誓し申し上げる。「白旗(※しらはた:源氏※)につけ」との権現の仰せを、なお疑って、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で勝負させる。赤い鶏はひとつも勝たない。みな負けて逃げてしまった。それでは源氏につこうと思い定めた。 一門の者を呼び寄せ、都合その勢2000余人、200余艘の舟に乗りつれて、若王子(※にゃくおうじ:熊野五所王子のひとつ。本地仏は十一面観音※)の御正体を船に乗せ申し上げて、旗の横上には、金剛童子をかきたてまつって、壇の浦へ近づいて来るのを見て、源氏も平家もともに拝む。しかしながら源氏の方へついたので、平家は意気消沈した。 源平合戦の初期、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵のときには、熊野別当の新宮家と田辺家が対立し、源氏寄りの新宮・那智勢と平氏寄りの田辺・本宮勢とに分かれて戦った熊野ですが、熊野別当田辺家の湛増は熊野三山の融和を図り、元暦元年(1184年)10月、湛増が第21代熊野別当に補任(ぶにん)されました。 源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかを新熊野十二所権現社(現 闘鶏神社)の社前で紅白の闘鶏を行って神慮を占い、その占いの結果に従い、元暦2年(1185年)、湛増は甲冑を身にまとい、熊野水軍(200余艘、2000余人)を率いて参戦。壇ノ浦に平家を沈め、源氏の勝利に貢献しました。伝説によると鉄製の烏帽子甲(えぼしかぶと)をかぶって戦いに臨んだといいます。
闘鶏神社の社務所には、湛増着用の鉄烏帽子、湛増所持の鉄扇などが展示されています。
湛増のその後壇ノ浦の合戦の翌年の文治2年(1186年)、熊野別当がかねてから知行していた上総国畔蒜庄(かずさのくにあびるのしょう:現在の千葉県袖ヶ浦市付近 )の地頭職(年貢の取り立てや土地の管理を行ない、領域内の住民を支配する役職)を源頼朝から改めて認められて、鎌倉幕府の御家人(ごけにん。鎌倉幕府の将軍直属の家臣)となります。 文治3年(1187年)、後白河法皇の熊野御幸の際の功により法印に叙せられ、改めて正式に熊野別当に補任されました。 建久6年(1195年)、京都で初めて源頼朝と対面。 建久9年(1198年)、死去。享年69。極位は法印権大僧都。
あらためて湛増プロフィール湛増(たんぞう) 源為義の娘であり源行家の姉である鶴田原の女房(たつたはらのにょうぼう:鳥居禅尼)の娘を妻としており、したがって湛増にとって、行家は叔父にあたり頼朝や義経や木曾義仲とは従兄弟の関係にあります。 また平清盛の異母弟、平忠度(たいらのただのり)の妻は、湛増の妹。 湛増の子は男子が7人、女子が5人。伝承では、義経の従者武蔵坊弁慶が湛増の子とされます。 2008.12.27 UP ◆ 参考文献
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