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★ 熊野三山とは何? |
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熊野三山(くまのさんざん)とは、紀伊半島南部、熊野にある、本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の3つの聖地をまとめていう場合の総称です。 本宮はもともとは熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していました。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座。現在に到ります。 平安時代中期の全国の主要な神社を列記した『延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう。これに記載された神社を式内社(しきないしゃ)と呼びます)』に、本宮は熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)として、新宮は熊野速玉神社として記載されていますが、那智の名はありません。 6世紀に伝来された仏教は日本国内に普及していく過程のなかで、次第に神道との融和をはかるようになり、また、神道の側でも仏教との融和をはかるようになりました。 こうした本地垂迹思想を受け入れることにより、これまで別個の信仰であった本宮・新宮・那智のそれぞれが「神仏習合」という新しい共通の信仰形態を手に入れることができたのだと考えられます。 本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。 本宮極楽浄土が来世の救済を、新宮浄瑠璃浄土が過去世の罪悪の除去を、那智補陀落浄土が現世の利益をうけもつという三位一体の信仰システムが形作られたのでした。 熊野が広くその名を知られるようになるのは、院政期、上皇による熊野御幸が行われるようになってからです。 これほどまでに上皇や女院や貴族たちに熊野信仰を浸透させることができたのは、修験者(山伏)の働きかけがあってのことだと思われます。 南北朝から室町時代にかけては、それまでの熊野山伏に代わり、時衆(じしゅう。のちに時宗)の念仏聖たちが熊野信仰をもりたてていきました。 その列をなした人々のなかには女性も大勢いました。 また、熊野は、当時、忌み嫌われ、社会の最下層に追いやられていたハンセン病者をも受け入れました。熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだったのです。 そのように、中世、日本最大の霊場として栄えた熊野でしたが、やがてその熱狂振りも衰微していきます。 (てつ) 2002.12.29 UP ◆ 参考文献
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