■ 熊野の説話 |
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◆ 後鳥羽上皇の熊野御幸 |
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建久3年(1192)、34回もの熊野御幸を行った後白河上皇が没し、源頼朝は征夷大将軍に任命され、時代は鎌倉時代へと入っていきましたが、熊野御幸は終焉を迎えませんでした。 後鳥羽上皇(1180〜1239)は高倉天皇の第4皇子。平家一門が安徳天皇を伴って都落ちしたことを受けて、寿永2年(1183)、祖父・後白河法皇の意向で4歳で即位しました。15年の在位の後、建久9年(1198)に19歳で譲位、院政を開始し、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って院政を行いました。 後鳥羽上皇は、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行うほど、熊野信仰に熱心でした。その熱心さは生涯に34回もの熊野御幸を行った後白河上皇をも凌ぐということができるかもしれません。 鎌倉幕府の干渉を嫌った後鳥羽上皇は自ら弓馬などの武芸を好み、これまでの北面の武士に加え、西面の武士を置き、また諸国の武士を招くなどして、幕府の配下にない軍事力の掌握に務めました。 後鳥羽上皇の熊野御幸で特徴的なのは、道中のところどころの王子社などで、和歌会(わかえ)が催されたことです。 28回の後鳥羽上皇の熊野御幸のうち、史料的に和歌会が催されたことが確認できるのは、3回目の正治2年(1200)の御幸と4回目の建仁元年(1201)の御幸の2回のみ。 鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には後鳥羽上皇の熊野御幸にまつわるこんな話が記されています(巻第七 術道・300)。 後鳥羽院が御熊野詣なさるのに、陰陽の頭(陰陽寮の長官)在継(ありつぐ。賀茂在継。造暦・文章博士・大膳大夫)を召してお連れになったときのこと。 上皇や女院、貴族が熊野参詣を行う場合、陰陽師に占わせ、参詣の日程を決定しました。 陰陽道は、中国の自然哲学「陰陽五行思想」に基づいて天体を観測して、暦を作り、吉凶を占う占星術のようなものです。 平安末期の熊野信仰の隆盛には少なからず陰陽道の影響があったものと考えられます。陰陽道の占いによって行動の指針を得ていたのですから、陰陽師の支持なしに上皇や貴族の熊野参詣が可能であったとは考えられません。 陰陽道と熊野との関わりはよくわかりませんが、陰陽師と熊野修験者との間には何らかの交流があったのだと思います。 史上最高の陰陽師安倍晴明も那智の滝で修業したと伝えられますし、熊野九十九王子のひとつであった安倍王子神社は境外末社として安倍晴明神社をもち、篠田王子は、聖(ひじり)神社という陰陽師の神を祀る神社や葛ノ葉稲荷神社(信太の森神社)の近くにありました。 しかし、熊野のこういう「何でもあり」のところが、神道国教化政策を進める明治政府には気に入らなかったのでしょうね。熊野の神社の8割から9割が廃滅されたといいますし。記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々は熊野では大方滅ぼされてしまいました。 承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺されて源氏の将軍が絶えると、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立が先鋭化し、承久三年(1221)5月、後鳥羽上皇はついに北条義時追討のために挙兵。承久の乱が起こりました。 承久の乱が起こる3ヶ月前に、後鳥羽上皇は28回めの熊野御幸を行っており、熊野で鎌倉幕府打倒の密談が行われた可能性もあります。 敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流されてしまいます。 隠岐に流された後鳥羽上皇は終生許されることなく、19年にわたる配所生活の後、60歳で崩御しました。 (てつ) 2003.3.12 UP ◆ 参考文献
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