■ 熊野の説話 |
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◆ 平家物語1 平清盛の熊野詣 |
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そもそも平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された。それは昔、こんなことがあったためだ。 清盛は20歳で肥後守となりましたが、それは父忠盛(ただもり)の熊野本宮造営の賞の譲りによるものでした。熊野にはそのような縁もあり、清盛はたびたび熊野を参詣しています。 平治元年(1159)には、子の重盛らを伴って熊野詣をしていたその隙をついて源義朝らが挙兵。切目王子まで来たところで源義朝らの挙兵を知り、ここから急きょ、京に引き返したと伝えられます。その折、清盛・重盛の父子は王子社の梛の枝を手折って、それぞれ鎧の射向の袖(いむけのそで:弓を射るときに敵に向ける側の袖。左の袖)に挿して護符として、京に引き返しました(『平治物語』上「六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事」)。 京では、義朝らが後白河上皇を幽閉、内裏を制圧して二条天皇を監視下に置き、ほぼクーデターを成功させていていましたが、清盛はみごと二条天皇を救出。 義朝追討の宣旨を奉じて、義朝らを打ち倒しました。熊野権現の加護を受けた清盛・重盛の父子。この平治の乱の勝利により平家は圧倒的な地位を得ます。 この『平家物語』の「鱸の事」に語られているお話は、それらより以前に行った熊野参詣の途上での出来事です。 それにしても、平家一門の繁栄は凄まじいものでした。 父忠盛の死により家督を継いだ長子清盛(1118〜1181)は、当初、安芸守でしたが、後白河上皇に重用され、保元の乱における功により播磨守に移り、太宰大弐になり、さらに平治の乱を鎮圧した功により正三位と昇進。宰相、衛府督、検非違使別当、中納言となり、従二位を叙され、大納言へと出世街道を駆け上がります。 清盛は3ヶ月で太政大臣を退き、翌1168年、病を理由に出家。病はたちどころに癒え、出家後も平家一門の繁栄は止まりません。 2003.2.4 更新 (てつ) ◆ 参考文献
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