■ 熊野の説話

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◆ 平家物語1 平清盛の熊野詣


 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 御存じ、軍記物語の最高傑作、『平家物語』の冒頭部分。
 『平家物語』に語られるのは、平家一門が繁栄し、そして滅亡へと至る、その過程。
 その『平家物語』に語られる時代、政治の中枢にいたのが、後白河上皇でした。後白河上皇は、上皇として最多の34回もの熊野御幸を行った大の熊野信者。上皇や貴族たちによる熊野信仰が全盛を迎えた時代を『平家物語』は描いているのです。そのため『平家物語』にはそこかしこに熊野の影が見受けられます。

 また、『平家物語』は、盲目僧形の芸人、琵琶法師によって琵琶に合わせて語られましたが、本宮町上地には、かつて全国の琵琶法師の総本山とされていたと伝えられる大智庵という寺がありました(中世以後、幕府公認で、盲人により組織された団体「当道(とうどう)」の根本史料『当道要集』を後に考証した『当道秘訣』巻下に記載された「熊野本宮光神山天夜尊御旧跡縁起」による)。
 熊野は、山岳宗教の中心地のひとつでありながら、女性の参詣を拒みませんでした。不浄とされた
月の障りでさえ、気にしませんでした。
 また、やはり当時、不浄とされ、被差別民の一種とされた障害者の参詣もすすんで受け入れました。
 熊野は「浄不浄をきらわず」あらゆる人々を分け隔てなく受け入れる数少ない聖地でした。熊野は
盲人や癩者をも回復させることができる場所だと考えられ、盲人や癩者が治癒の奇跡を求めて熊野を参詣したのです。
 そのため、盲目の琵琶法師がその総本山を本宮に置いたとしても不思議ではありません。琵琶法師と熊野には深いつながりがあり、それが『平家物語』に熊野の影を落とさせたのかもしれません。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 まず最初に熊野が登場するのは、巻一の「鱸(すずき)の事」。

 そもそも平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された。それは昔、こんなことがあったためだ。
 清盛がまだ安芸守であったとき、伊勢国安濃の津(伊勢平氏の本拠地)から舟を使って熊野へ参詣したときに、大きな鱸(すずき)が舟の中に踊りこんできた。
 先達の修験者が「昔、周の武王の船に白魚は躍りこんだという。おそらく、これは熊野権現の御利益と思われます。召し上がりなさい」と申したので、清盛は十戒を守って精進潔斎の熊野参詣の道中であるけれど、自ら調理して、身を食べ、家子(いえのこ。一門の庶流で本家の家来になっている人々)、侍(血縁関係のない家来)たちにも食べさせた。
 そのためか、以後、吉事のみが続いて、清盛自身は太政大臣にまでなり、子孫の士官の道も、龍が雲に上るよりすみやかであった。九代の前例を越えたのは見事である。

 清盛は20歳で肥後守となりましたが、それは父忠盛(ただもり)の熊野本宮造営の賞の譲りによるものでした。熊野にはそのような縁もあり、清盛はたびたび熊野を参詣しています。
 平治元年(1159)には、子の重盛らを伴って熊野詣をしていたその隙をついて源義朝らが挙兵。清盛らは急きょ、京に引き返し、義朝らを打ち倒しましました。この平治の乱の勝利により平家は圧倒的な地位を得ます。
 その翌年には後白河上皇の初めての熊野御幸に従っています。そのときのことが『
梁塵秘抄口伝集』に描かれて、清盛の名も記されています。

 この『平家物語』の「鱸の事」に語られているお話は、それらより以前に行った熊野参詣の途上での出来事です。
 熊野詣は精進潔斎の道。行きも帰りも、魚や肉、ネギやニラなどは口にすることはできませんでした。清盛一行も津を出てから精進潔斎を守ってきたはずです。それにもかかわらず、鱸を食すことを先達の修験者が勧めます。
 おそらく、これは、清盛が 熊野三党(熊野の有力者、宇井・鈴木・榎本の三氏)の力、熊野の力を手に入れたということを示しているのだと思われます。

 それにしても、平家一門の繁栄は凄まじいものでした。
 平家は、清盛の祖父正盛(まさもり)の代まで諸国の受領にすぎず、中央の政界では何の力ももっていませんでしたが、清盛の父忠盛が武士として初めて昇殿を許され、平家繁栄の足掛かりを築きました。

 父忠盛の死により家督を継いだ長子清盛(1118〜1181)は、当初、安芸守でしたが、後白河上皇に重用され、保元の乱における功により播磨守に移り、太宰大弐になり、さらに平治の乱を鎮圧した功により正三位と昇進。宰相、衛府督、検非違使別当、中納言となり、従二位を叙され、大納言へと出世街道を駆け上がります。
 その間、清盛の妻の妹滋子が後白河院の後宮に入って、憲仁親王(高倉天皇)を生みます。親王が皇太子になってまもなく、1167年、清盛は50歳で従一位太政大臣になりました。武家出身でありながら、全官職中最高位で「天皇の師範」と規定される太政大臣にまで清盛は登りつめたのです。

 清盛は3ヶ月で太政大臣を退き、翌1168年、病を理由に出家。病はたちどころに癒え、出家後も平家一門の繁栄は止まりません。
 嫡男
重盛(しげもり)は内大臣左大将、次男宗盛(むねもり)は中納言右大将、三男知盛(とももり)は三位の中将、嫡孫維盛(これもり)は四位の少将。一門の公卿は全部で16人。殿上人は30余人。諸国の受領、衛府の役人、諸官など都合60余人に及び、平家の知行国は全66カ国中30余国を数えました。
 また娘徳子は高倉天皇の后となり、言仁親王(安徳天皇)を生みます。ここに平家一門の繁栄は絶頂を極めました。
 かくも平家は繁栄したのですが、それはひとえに熊野権現の御利益であると噂されたのでした。

2003.2.4 更新
2003.6.20 更新

(てつ)

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 ◆ 参考文献

佐藤謙三校注『平家物語 (上巻)』角川文庫ソフィア
梶原正昭・山下宏明 校注 新日本古典文学大系『平家物語(上)』岩波書店
くまの文庫2『熊野中辺路 伝説(上)』熊野中辺路刊行会

   

■平家物語
1 平清盛の熊野詣
2 藤原成親の配流
3 成経・康頼・俊寛の配流
4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵
6 文覚上人の荒行
7 清盛出生の秘密

■参考サイト
官制大観
 古代から平安末期までの官制についてのサイト。官職、位階等について知りたい方はこのサイトをどうぞ。

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