■ 熊野の説話 |
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◆ 平家物語5 以仁王の挙兵 |
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治承3年(1179)、嫡男・重盛を失った平清盛は、関白以下数十人もの高官を追放し、後白河法皇を鳥羽の離宮に軟禁。その翌年には、高倉天皇を20歳の若さで退位させ、徳子(清盛の次女・建礼門院)が生んだ安徳天皇をわずか3歳で即位させました。清盛は天皇の外祖父となり、名実共に絶対的な権力者となったわけです。 そのころ、後白河法皇の第二皇子、以仁王(もちひとおう。1151〜80)がひそかに平家打倒の令旨を発しました。 その以仁王に謀叛を勧めたのは、源頼政(みなもとのよりまさ)という齢77歳の老武将。 もし平家打倒の令旨(りょうじ。皇太子・皇后などの命令を記した文書)が下れば、諸国の源氏が喜んで蜂起するとの頼政の言葉に乗った以仁王は挙兵を決意。自ら最勝親王と称して、平家打倒の令旨を諸国の源氏に下すことにしました。令旨は平家方に知られずに極秘のうちに諸国の源氏に伝えられなければなりません。その重要な任務を任されたのが、熊野の新宮に隠れ住む故源為義の十郎(十男)である源義盛(よしもり)でした。 さて、続きを巻第四の「源氏揃(げんじぞろえ)」から解説を交えながら現代語訳します。 まず新宮の十郎義盛をお呼びになって、八条院の蔵人になさる。行家(ゆきいえ)と改名して、令旨の御使いに東国へと下された。 八条院は鳥羽天皇と美福門院得子(びふくもんいん・とくし)の皇女で、後白河法皇の妹。父と母から全国数百ケ所に及ぶ荘園を受け継ぎ、巨万の富を有していました。以仁王を猶子(兄弟の子を養子とすること)としていたことから、以仁王の挙兵に賛同。新宮十郎義盛(行家)を自身の蔵人(近習)とし、全国各地に散らばる荘園への使いを名目として、行家を令旨伝達の使者に立てました。 四月二十八日に都を発って、近江の国から始めて、美濃・尾張の源氏どもに次第に触れて下りながら、五月十日には伊豆の北條の蛭が小島に着いて、流人の前右兵衛佐殿(さきのうひょうえのすけ。源頼朝のこと)に令旨を取り出して奉る。「信太(しだ。常陸国信太、現在の茨城県稲敷郡桜川村)の三郎先生(せんじょう)義憲は兄なので、賜ろう」と言って、信太の浮島へ下る。「木曾冠者義仲は甥なので取らせよう」と言って、中山道へと赴いた。 しかし、この新宮十郎行家の動きは、ただちに熊野の田辺(現和歌山県田辺市)にいた熊野別当(熊野三山の実際の統括者)の湛増(たんぞう)の知るところとなります。 そのころ、熊野の別当・湛増は、平家重恩の身であったが、どうにかして聞き出したのだろう、「新宮の十郎義盛が高倉の宮(以仁王)の令旨を賜って、すでに謀叛を起こしたということだ。那智・新宮の者はきっと源氏の味方ををするだろう。湛増は平家の重恩を天のように山のように高く蒙っているので、どうして背き申し上げることができようか。矢をひとつ射かけて、その後に都へ子細を報告申し上げよう」と言って、一千余人が甲冑に身を固め、完全武装して、新宮の港に向かった。 田辺にいた熊野別当・湛増は、源為義の娘であり行家の姉である鶴田原(たつたはら)の女房の娘を妻としており、したがって湛増にとって、行家は叔父にあたり頼朝や義経や木曾義仲とは従兄弟という関係なのですが、湛増は平家に心を寄せました。 湛増の父の第18代熊野別当・湛快(たんかい)が拠点を新宮から田辺に移して以来、熊野別当家は新宮家と田辺家に別れました。 以仁王が謀叛の動きを見せたとき、湛増はまだ熊野別当ではなく権別当(ごんべっとう。別当の補佐役)であったようで、三山すべてを支配下に治めてはいませんでした。湛増の支配下にあったのは自らの拠点であった田辺と熊野三山のなかで最も田辺に近い本宮です。 熊野三山のうち新宮と那智は源氏方に付くようだが、自分がいま、平家との関係を断ち切って源氏方に付くわけにはいかない。新宮と那智が源氏方に付くならば、自分は新宮・那智を相手に合戦に立ち上がる他ないではないか。源平のどちらが勝ったとしても自分が勝ち残り、熊野三山が生き残る。そのためには今はこうするしかないと、湛増は決意したのでしょう。 湛増は、田辺勢を率い、本宮勢とともに新宮に攻め込みました。 新宮には鳥井の法眼(第19代熊野別当・行範の子、行全。法眼(ほうげん)とは僧位のひとつ)、高坊の法眼(行範の子、行快(行全の兄)のことか?)、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(行範の子、範誉。行快・行全の兄)以下、その勢力都合一千五百余人がときを作り、矢合わせ(開戦の通告のために両陣営が互いに鏑矢を射合うこと)をして、源氏方では「あそこを射れ」、平家方では「ここを射れ」と声がかかり、矢叫びの声(矢が命中したときに射手があげる叫び声)は途絶えることなく、鏑矢の鳴り止む暇もなく、三日ほど戦った。 「覚えの法眼」は、上の文では湛増のこととして訳しましたが(湛増も法眼の僧位を得ていたようですし)、もしかしたら『源平盛衰記』に登場し新宮を攻めた本宮の大江法眼のことかもしれず、この『平家物語』では大江法眼と湛増が混同されているのかもしれません。 さて、熊野から離れて都に目を向けると、平家方は湛増が遣わした飛脚からの報告により以仁王の謀叛のことを知らされました。清盛は激怒し、以仁王捕縛の手勢を高倉の御所に差し向けました。捕縛の手勢の一人に頼政の子・兼綱を入れるほどでしたので、平家方は謀叛の企みはまったく察知していなかったようです。兼綱からこのことを知らされた頼政は以仁王に急ぎ知らせ、以仁王を高倉の御所から脱出させました。 以仁王は三井寺(園城寺のこと。滋賀県大津市園城寺町)に入り、その後、頼政も手勢を連れて合流。しかし、延暦寺を味方にすることに失敗し、南都(藤原氏の氏寺、興福寺。奈良県奈良市登大路町)を頼って、三井寺を出て奈良に向かうことにします。しかし、その途中に平家軍に追い付かれ、宇治川をはさんで合戦となりました。 以仁王に味方した三井寺は討伐され、寺の諸堂、今熊野の御宝殿も焼かれ、一切経や仏像も焼かれ、さらに大津の多くの民家も焼かれました。 以仁王の挙兵は、その企てを事前に熊野別当の湛増に悟られたため、失敗に終わりましたが、その平家打倒の令旨は生き続け、平家打倒の気運も高まり、諸国の源氏の蜂起を促したのです。 (てつ) 2003.1.15 UP ◆ 参考文献
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