■ 熊野の説話 |
||||||||
|
|
||||||||
◆ 平家物語4 平重盛の熊野詣 |
||||||||
|
平重盛(しげもり。1137〜79)。 『平家物語』では、清盛のみごとな悪役振りに対して、重盛は好人物に描かれています。 1170年10月16日、重盛の次男 資盛(すけもり。1161〜1185。当時、越前守五位、13歳)の一行が摂政従一位 藤原基房(1144〜1230)の一行と路上で行き会ったとき、当然、身分の低い資盛側が馬から降りて、行列が過ぎるのを待たなければならないのですが、資盛は下馬の礼儀を取りませんでした。基房側はその無礼に資盛らを馬から引きずり落として、辱めを与えました(史実では7月3日)。 これを知った清盛は報復に出ようとしますが、重盛は資盛の非礼を戒め、清盛の暴走を抑えようとします。しかし、清盛は、参内途中の基房を60余人の武士に襲撃させるという報復を実行。 また、平家打倒を謀議していた後白河上皇とその近臣たちに対して、清盛は容赦ない処罰をくだそうとしますが、重盛はその制止に奔走。 さて、俊寛僧都が、鬼界ヶ島で他界した年(1179年)の5月12 日の正午頃、都をつむじ風が襲いました。凄まじい突風に、数多くの人家が吹き飛ばされ、多くの人や牛馬の命も失われました(史実としては1180年4月29日のことですが)。 小松の大臣(平重盛のこと。小松谷に屋敷があり、小松を号した)は、このような事どもをお聞きになって、何事につけ心細く思われたのだろう、その頃、熊野参詣をすることがあった。本宮証誠殿(しょうじょうでん)の御前で、夜もすがら願いごとを申し上げなさるには、 「父入道相国の様子を見るに、悪逆無道にして、なにかにつけて帝を悩まし奉っております。重盛は長子としてしきりに諌めをいたしておりますが、我が身不肖のため、父は私の忠告に心をとめてくれません。 このときにあたって、重盛が身分不相応にも思うことがあります。なまじっか重臣の席に列して栄枯盛衰に身をさらすことは、まったく良臣、孝子の法ではありません。名を逃れ身を退いて、今生の名望を投げ捨て、来世の菩提(死後、浄土に往生して仏果を得ること)を求める以外にはありますまい。 ただし煩悩に束縛され果報の劣った我が身の悲しさ、善悪の判断に迷うためにやはり出家の志を貫くことができません。南無権現金剛童子(熊野権現の護法神である金剛童子)、願わくは子孫繁栄絶えることなく、仕えて朝廷にまじわることができるために、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得させてください。もし栄華が父一代限りで終わって子孫が恥を受けるのならば、重盛の寿命を縮めて、来世での苦しみを助けてください。二つの願い、ひたすら神仏の助けを仰ぎます」 と、心を砕いて祈念されたところ、灯籠の火のようなものが大臣の御身から出て、ばっと消えるかのように失せてしまった。たくさんの人が見申し上げていたけれども、恐れてこのことを申し上げなかった。 また、下向(神仏に参詣して帰ること)のとき、岩田川をお渡りになったところ、嫡子 権亮(ごんのすけ)少将 維盛(これもり)以下の公達が浄衣の下に薄紫色の衣を着ていて、夏のことなので、なにということもなく川の水で戯れてなさっていたところ、浄衣が濡れて下に着た衣の薄紫色が透けているのが、まったく薄炭色の喪服のように見えたので、筑後守 貞能(さだよし)がこれを見とがめて、 「なんということでしょう。あの御浄衣がひどく不吉な様子にお見え申し上げます。お着替えなさるのがよいのではないでしょうか」 下向ののち、幾許の日数を経ずして、病にかかりなさった。 病の治療に清盛が宋の名医を差し向けようとすると、重盛は「異国の医師を都に入れることは国の恥だ」と断ります。 誠実・温厚な人柄で人望の厚かった重盛の死に京中の人々が嘆きあいました。清盛の横暴を抑えることができた唯一の人物が失われてしまったのです。 同じ年の11月7日の夜、地震が起き、陰陽頭 安倍泰親(あべのたいしん。安倍晴明の五代の子孫)は大きな災難が起こる前兆だと占いました。その占いに不安になった京の人々の間で、「清盛が数千騎の軍兵を率いて都に入った」「清盛が朝廷に対し、恨みを晴らす行為に出るのだ」との噂が駆け巡りました。 そして、11月16日、清盛は、強権発動。関白藤原基房以下、43人の公卿・殿上人の官職を停止し、流罪に処し、新関白には、内大臣も兼任で、清盛の娘婿の藤原基通(もとみち)を就かせました。二位中将から中納言、大納言を経ずして大臣・関白にさせるという、無茶苦茶な人事でした。 11月20日、とうとう、重盛という抑えを失った清盛は、後白河法皇を鳥羽の離宮に遷し、軟禁するという暴挙に出てしまったのです。 (てつ) 2000.12 UP ◆ 参考文献
|
スポンサード リンク 関連商品 |
|||||||
|
|
||||||||