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◆ 弁慶物語1 弁慶誕生


弁慶産湯の釜 弁慶産湯の釜、闘鶏神社所蔵

 『弁慶物語』の始まり、始まり。

 竜が吟ずると、雲が起こる。鶴には及びもつかないことである。虎が吠えると、風が騒ぐ。ミミズのなし得ることではない。稲妻や朝露、石を打って出る火のようにはかない世の中であるので、災わいや不思議なことが起こることは多いといえども、比叡山延暦寺の西塔の武蔵坊弁慶が少しでもいた所に、いさかいの起こらないことのないほうが不思議である。

 そもそも、この武蔵坊と申す者は熊野の別当弁心の子である。この弁心、いかなる前世の執着があったのだろうか、40代後半になるまで男子でも女子でも、子というものがひとりもなかった。
 女房もこれを歎き、あるとき二人で、若一王子に7日間参籠し申しなさって、申し子をしなさる。7日間の満願の夜に、鳶の羽根を頂戴するという夢をご覧になってより後、ご懐妊なさる。

 普通の人は9ヶ月10ヶ月を限りとするのに、この人は10ヶ月20ヶ月を過ぎ、3年かかって生まれた。姿を見れば、非常に度を越えて恐ろしく、普通の人の3歳ほどの姿である。髪は首まで生え下がり、目は猫の目と同じである。歯は生えそろい、足手の筋がさし表れ、伏していたのが起き上がり、東西をきっと見て、「ああ明るい」と言って、からからと笑った。

 弁慶生誕の地と伝えられる場所は三重県南牟婁郡紀宝町鮒田(ふなだ)と和歌山県田辺市湊にあります。

 紀宝町鮒田には「弁慶産屋之楠」と刻まれた石碑が建てられています。
 弁慶が生まれたとされる屋敷の庭には大きな楠が生えていました。
 その楠は「弁慶産屋の楠」と呼ばれていましたが、1795年(寛政7年)に焼失してしまい、その後、1854年(嘉永7年)にその跡地に石碑が建てられ、弁慶生誕の伝説を伝えてきました。
 楠には大きな洞穴があって、そこで弁慶は生まれたとする説もあるようです。

 田辺市湊には「弁慶生誕乃地」の石碑が、闘鶏神社の直ぐ手前にある小さなお寺、大福院の境内にあります。大福院は、弁慶産湯の釜を所蔵していました(今は闘鶏神社が所蔵)。

 弁心はこの様子をご覧になって「ふさわしくない申し子をしたので、鬼子(おにご。生まれつき姿形が異様な子)を頂戴したことの情けなさよ」と言って、腰の刀を抜き、もう殺そうとされたので、慈悲の憐れさに母は、弁心の袖にすがって、

 「少しの間、ものを申します。お聞きになってください。老子という人は70年もの間、母の胎内にいて、鬢やヒゲが白くなって生まれたと承ります。ましてや、3年の間の春秋を送ったことなので、ものを言うのが当然です。
 六趣四生のそのうちで、どれほどの罪深い人が我らの子として生まれ、3年ほど胎内にあり、暗い所を出て、たまたま明るい所に出て、月日の光を拝み奉ろうとするのに、幾程もなく剣の先にかけ、修羅道に落とそうというのは悲しいことです。どういうわけで、子がないときは祈誓申し上げ、たまたま子が生まれたときにはその子を殺すことができるのですか。
 天地の神々のご配慮であるので、何か事情があるにちがいないと思われます。若一王子より頂戴した子なので、納得がいかなければ、運に任せて、この山の奥にでも捨て置き、善悪は神の御心のお任せ申し上げくださいね」

 と歎き説得なさると、弁心もさすがに恩愛の悲しみを思って、「そうであるならば、いかようにも」と言って、乳房をさえもあたえず、深山にお捨てになった。

 7日が経ち、「むごいことだ。今はもう狐や狼にでも喰われているであろう。もし死骸でも残っていたならば取り集めて、供養せよ」と言って、人を遣わせたところ、死んでいるということはまったくなく、木の実を拾って飲食し、制する人もいなかったので、思いのままに遊び狂っていたところに、使いが来ているのを見て、「お前は迎えに来たのか。連れていけ」と言って、追いかけた。

 このように言う声、耳に応えて恐ろしく、やっとのことで逃げのび、弁心の前で息をきらせ、汗を流し、ものを申し上げさえもしなかったので、「どうした、どうした」と尋ねられて申し上げるには、「ああ、いとわしい。この山に鬼がひとりいる。私を見て追ってくるのを、やっとのことで逃げのびてきました。まさしく以前の幼少の者でございます」と申し上げると、弁心ははなはだよくないことだとお思いになり、「以前に殺すべきであったものを」と後悔されたけれども、仕方がない。

 女房は嘆かわしく思ったのだろう、沈み伏しんいなさる。その後、恐れ、「行こう」と申し上げる人もいない。まことに、若一王子の御氏子であるので、狐や狼も守護したのか、人跡絶えた山で21日も日を送ったけれども、相違もなく、今さら、いにしえの因位の事(因位は原因となるものの状態のこと。若一王子が神となる以前のことを指すのか)まで思い出されて哀れである。

 若一王子の神の前世は、中天竺の摩訶陀国(まかだこく)の善財王の王子。この王子の誕生の仕方も異常です。
 善財王の寵愛を一身に集め、子を懐妊した母女御は他の999人の后たちのねたみを買い(善財王には1000人の后がいました)、山中で王子を出産の後、首を斬られて殺害されてしまいます。王子は、そのまま山中に捨てられ、首のない母の屍体から乳を飲み、虎たちに守護されて成長します。3年後、喜見上人(きけんしょうにん。けちん上人とも)に拾われ、養育されます。

 この王子が若一王子となり、母女御は結宮(むすびのみや。那智の主神)、善財王は速玉宮(はやたまのみや。新宮の主神)、上人が証誠殿(しょうじょうでん。本宮の主神)となったと熊野権現の縁起譚では語られます。
 この物語が弁慶伝説にも影響を与えていることは確実でしょう。
 室町時代に成立した『義経記』や『弁慶物語』などよりずっと後世、江戸時代になって作られた浄瑠璃「鬼一法眼三略記」では、弁慶は、母の胎内にいること7年にして、母の屍体の傷口から誕生したとされ、熊野権現の縁起譚に語られる若一王子の前世譚の影響をより色濃く映しています。

 その頃、都に五条の大納言と申し上げる人がいらっしゃった。これもひとりも子のないことを悲しみ、子を授かって死後の安楽を祈ってもらうために、若一王子に参り申し子をしなさると、7日めに示顕があって、「氏子をひとり我が山に捨てて置いてある。拾って養育すれば、今生のことはわからないが、後生は必ず助かるはずである」と夢想のお告げがあった。夢から醒め、急ぎ出発して、深山に入って尋ねたところ、幼い者に行き会った。

 たいへん喜び、抱いて、都に上り、見た目の顔かたちは非常に度を越えて悪いけれども、王子より頂戴した子であるのでと言って、若一(わかいち。「にゃくいち」とする本もある。『義経記』では鬼若(おにわか)とする)殿と名をお名付けになった。成長いするに従って、器量骨柄、心の様子が優れているように見えるようになった。

 とりあえず、今回はここまで。

(てつ)

2003.5.24 UP
2003.11.18 更新
2010.7.23 更新

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 ◆ 参考文献

新日本古典文学体系55『室町物語集』岩波書店
乾克己・小池正胤・志村有弘・高橋貢・鳥越文蔵 編『日本伝奇伝説大事典』角川書店

 

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■弁慶物語
1 弁慶誕生
2 比叡山
3 武具揃え
4 喧嘩修行
5 義経
6 平家一門
7 吉内左衛門
8 脱出

弁慶をめぐる旅

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