■ 熊野の説話 |
||||
|
|
|||
◆ 平家物語2 大納言藤原成親の配流 |
||||
熊野権現の加護を受けた平清盛は、保元の乱・平治の乱で功を上げ、後白河上皇に引き立てられ、後白河上皇のもと、異例の昇進をし、権力をほしいままにしました。そのため、貴族たちの反感を買いますが、藤原摂関家の力を弱め、院の権力を強化することが後白河上皇の清盛重用の狙いでした。 大納言藤原成親(なりちか。1138〜79)を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)は、京東山の麓の鹿の谷(ししのたに)にある俊寛僧都の山荘に集い、平家打倒を謀議するようになります。その謀議には、ときに後白河上皇の参加もありました。 西光法師は拷問の上、斬殺されました。その子らも殺されてしまいます。 藤原成親は後白河上皇のお気に入りで、熊野御幸にも幾度か従っているようです。『梁塵秘抄口伝集』にも成親の名は見えます。 西八条の清盛邸から西へ出て、朱雀大路を南へ行くと、成親はいつも参内していた皇居をも今は遠い場所に見て通り過ぎなさった。長年、見なれもうしあげた雑色・牛飼にいたるまでみな、涙を流し、袖を濡らさぬ者はなかった。まして都に残り留まりなさる北の方や幼い子供たちの心のうちが推し量られて哀れである。 鳥羽殿(京都の南方鳥羽にあった城南離宮)をお過ぎなさるときにも、「この御所へ法皇がおいでになるときには一度もお供から外れなかったものを」と思い、「洲浜殿」という自分の山荘があったのだが、それをも遠くに見てお通りなさった。 大納言が「同じ殺されるのならば、都近くのこのあたりで殺してくれよ」とおっしゃったのも、よほどの事である。 成親ほどの身分であれば、熊野詣・天王寺詣などには、二つの龍骨のある屋形を三段に造った大きな船に乗り、後続の船を20〜30隻も続けていたものだが、今はみずぼらしい、屋形を仮に据え付けた舟に、大幕を引き、見なれぬ兵どもに連れられて今日を最後に都を出て、波路遥かに赴かれた心のうちが推し量られて哀れである。 城南離宮から船に乗り、淀川を下るのは、熊野御幸のときも同じ。城南離宮で身を清めてから出発するのが熊野御幸の習わしでした。 成親は一旦は備前の児島に置かれますが、じきに内陸の備前備中の国境にある有木の別所という山寺に身柄を移されます。そして、その配所で成親は出家しましたが、その後、密かに殺されてしまいました。 (てつ) ◆ 参考文献
|
Loading...
Loading...
|
amazonのおすすめ |
||
|
||||
|
||||