■ 熊野の説話

 み熊野トップ>熊野の説話>平家物語

◆ 平家物語7 平清盛出生の秘密


平忠盛(江戸時代、菊池容斎画) 頼朝挙兵の報を受け、清盛は頼朝勢討伐のために孫の維盛(これもり。重盛の嫡男)を大将軍、忠度(ただのり。清盛の異母弟)を副将軍にして、軍勢を福原から出陣させました。

 富士川をはさんで源平両軍が対峙。平家の軍勢は都を出たときの三万騎が七万騎にふくれあがり、対して源氏方は甲斐・信濃の源氏が集まった二十万騎(実際は十万騎がいいところだったようですが、平家は相手方が二十万騎だと誤認しました)。
 明日は矢合わせと決まった日の夜、その後の源平の趨勢を占うような出来事が起きました。
 富士川近くの沼沢で羽を休めていた水鳥が何に驚いたのか、一斉に飛び立ちました。その羽音に、平家の軍勢は源氏の夜襲かと慌てふためき、とるものもとりあえず逃げだしてしまったのです。

 翌朝、源氏方はそのことを知らずに、鬨(とき)の声をあげました。しかし、当然、平家の方では何の声もあがりません。不審に思い、様子を探らせてみたところ、平家方はすでに逃げ去ったあとであることがわかりました。
 戦わずしてあっけなく勝利を手にし、平家の弱さを思い知った頼朝ですが、追討はせずに駿河・遠江両国の平定を優先。家臣に駿河・遠江両国の統治を委任し、頼朝は相模国へ戻りました。今は上洛するときではなく関東の地盤を固めるべきとの判断によるものでした。

 さて、一方、福原に逃げ帰って来た維盛らですが、清盛の怒りはすさまじく、「維盛を鬼界が島へ流せ」とまで言い出すほどでしたが、一門のとりなしでおさまり、結局、維盛は右近衛中将へ昇進することになりました。

 富士川合戦の敗北、寺院勢力の反発、宮中の人々の不満も鑑み、清盛はついに福原遷都を断念。わずか5ヶ月で旧都へ還都することとなりました。
 還都後、以仁王の乱に荷担した南都(興福寺。藤原氏の氏寺)を、重衡(しげひら。清盛の四男)を大将軍にして、四万騎で攻め、焼き払いました。

 治承4年は、2月に孫を安徳天皇として即位させ、清盛が天皇の外祖父となって絶対的な権力を手に入れたものの、5月の以仁王の乱以降、福原遷都、頼朝の挙兵、富士川合戦の敗北、旧都還都、12月の南都焼打ちと平家にとって難事続きの1年でした。
 あくる治承5年正月は年始の拝賀式も取り止めになり、14日には、清盛の傀儡として院政を行ってきた高倉上皇が21歳の若さで崩御してしまいます。

 高倉上皇崩御の頃、信濃では、いとこの頼朝の挙兵を聞き、木曽義仲も挙兵を決意。信濃の動きは各地に伝わり、平家打倒の動きは東国・北国のみならず、九州・四国にまで広がりました。
 熊野別当湛増(たんぞう)もこれまでの平家寄りの姿勢を改め、源氏に同心したとの噂も聞こえました。

 そこで、平家は宗盛(むねもり。清盛の次男)を大将軍に源氏討伐に東国に向かうことを決めましたが、その矢先、清盛が病気になり、出発は取り止めになりました。
 閏(うるう)2月4日、清盛が熱病で死去。64歳の生涯を閉じました。遺言は「頼朝の首をはねて、我が墓の前にかけよ」でした。

 さて、清盛のことですが、「清盛は白河法皇の落胤である」という噂が昔からありました。巻六「祇園女御の事」にそのことが語られ、その話に熊野詣の道中での出来事が語られますので、ご紹介します。

 ある夜、白河法皇が寵姫 祇園女御(ぎおんにょうご)の所へ通う途中、女御の家の近くで得体の知れぬ鬼のようなものの姿を見つけ、法皇やお供の者たちが大騒ぎになりました。
 白河法皇は北面の武士としてお供のなかにいた忠盛に、鬼を射殺すように命じました。
 しかし、忠盛は、大したものではないと判断し、殺しては悔やまれる、生け捕りにしようと、走りよって組みつきました。捕まえてみると、正体は鬼ではなく60歳ばかりの法師でした。

 忠盛が殺さずに生け捕りにしたおかげで、白河法皇は僧侶を殺すという大罪を犯すことを免れたのです。
 このことに白河院は感じ入り、忠盛に褒美として、寵愛していた祇園女御を賜りました。
 この女御は白河院の子をはらんでいたので、白河院は「生まれる子が女子であれば我が子にし、男子であれば忠盛の子にせよ」ということになりました。
 現代の感覚では奇異なことのように思えますが、当時は、女性の下げ渡しはよくあることで、しかも仕える側からすれば大変名誉なことでした。将来の出世も約束されるようなことでもあったのです。
 まもなく祇園女御は男子を生みました。さて、続きを現代語訳します。

 忠盛はこのこと(男子が生まれたこと)を奏上しようとお思いになったけれど、適当な機会がなかった。そんなあるとき、白河院が熊野へ御幸になった。紀伊の国の糸鹿坂という所に御輿を据えてさせて、しばらく御休憩になった。そのとき、忠盛は、薮に山芋の子がいくらもあったのを見つけて、それを採り、袖に入れ、院の御前に参り、畏まって、

いもが子ははふほどにこそなりにけれ

(山芋の子が蔓が地を這うほどたくさんなっていることだなあ、という意味ですが、祇園女御の生んだ子が這うほどに成長したということを懸けています)

と申されたところ、院はただちにお気づきになって、

ただもり取りてやしなひにせよ

(そのまま盛り採って栄養にせよ、という意味ですが、忠盛がそのまま引き取って養育してくれということを懸けています)

とあとの句をおつけになった。このときから忠盛は自分の子としてお養いになった。

 この若君はあまりに夜泣きしなさったので、院はお聞きになって、一首、歌をお詠みになって忠盛にくだされた。

夜泣(よなき)すともただもり立てよ末の世に清く盛(さか)ふる事もこそあれ

(その子が夜泣きをしても、忠盛よ、大事に育ててくれ。将来、その子がお前の一家を繁栄させることもあるかもしれないから)

 そのことから清盛と名づけられた。十二歳で元服して兵衛佐(ひょうえのすけ)になり、十八歳で四位に叙せられ、四位の兵衛佐と申したのを、子細を知らぬ人は「花族(かしょく。清華の別称。摂家につぐもので、大臣・大将を兼ね太政大臣まで昇進できる家柄)の人であればこういうこともあろうが」と申し上げると、鳥羽院はお聞きになって、「清盛の血筋は花族に劣るまい」とおっしゃられた。

 清盛がじつは白河法皇の落胤であると聞かされると、たしかに納得できるものがあります。天皇の血筋が流れているからこそ、あそこまでのことができたのだろうと思えます。
 少年時代から破格の待遇を受け、保元の乱や平治の乱などの武功により異例の出世を遂げ、ついに武家でありながら人臣としては最高位の従一位太政大臣となった清盛。

 さらには天皇の外祖父となり、天皇や上皇まで意のままに操り、平家政権を樹立するまでになります。
 このようなことが清盛になぜできたのかと考えると、やはり清盛が天皇の子であったからとするのがいちばんしっくりきます。
 福原遷都などは清盛自身に自分は天皇の子であるという自覚があればこそ可能だったのではと思われます。

(てつ)

2003.2.4 UP

back next

 ◆ 参考文献

佐藤謙三校注『平家物語 (上巻)』角川文庫ソフィア
梶原正昭・山下宏明 校注 新日本古典文学大系『平家物語(上)』岩波書店
加藤隆久 編 『熊野三山信仰事典』戎光祥出版
水上勉『平家物語』学研M文庫
別冊太陽『熊野―異界への旅』平凡社
高野澄『すらすら読める「平家物語」』.PHP文庫
高野澄『熊野三山・七つの謎―日本人の死生観の源流を探る』祥伝社ノン・ポシェット
乾克己・小池正胤・志村有弘・高橋貢・鳥越文蔵 編『日本伝奇伝説大事典』角川書店

Loading...
Loading...

■平家物語
1 平清盛の熊野詣
2 藤原成親の配流
3 成経・康頼・俊寛の配流
4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵
6 文覚上人の荒行
7 平清盛出生の秘密
8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣
10 平維盛の入水
11 湛増、壇ノ浦へ
12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣
14 平忠房、斬られる

■清盛の生母については『平家物語』では祇園女御とされますが、明治に発見された滋賀県多賀町の胡宮(このみや)神社の古記録「仏舎利相承次第」では、祇園女御の妹とされ、彼女が白河法皇の胤を宿し、忠盛に下げ渡されたとあります。彼女は若くして亡くなったので、姉の祇園女御が清盛を引き取り養育したとされます。

amazonのおすすめ

 

 


み熊野トップ>熊野の説話>平家物語