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平家物語14 平忠房、斬られる

紀州湯浅に立て籠り戦った平重盛の子・忠房

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

建春門院滋子の舞


 平忠房(たいら の ただふさ、生年未詳~1186年)は平重盛の六男。五男という説もあります。

『平家物語』巻第十二「六代被斬(ろくだいきられ)」より一部現代語訳

 小松殿(※平重盛※)の御子、丹後侍従忠房(※たんごのじじゅう ただふさ:平忠房〔たいらのただふさ〕。重盛の六男、維盛の弟。官位は従五位下侍従兼丹後守。そのため「丹後侍従」と呼ばれた※)は、屋島の戦さより落ちて行方も知れずいらっしゃったが、紀伊国の住人、湯浅権守宗重(ゆあさのごんのかみむねしげ)を頼んで、湯浅の城にこもられた。

 これを聞いて平家に思いをかけていた越中次郎兵衛(えっちゅうのじろうびょうえ)・上総五郎兵衛(かずさのごろうびょうえ)・悪七兵衛(あくしつびょうえ)・飛騨四郎兵衛(ひだしろうびょうえ)以下の兵どもが付き申し上げたとのことが聞こえたので、伊賀伊勢両国の住人らがわれもわれもと馳せ集まる。

 すぐれて強い者どもが数百騎立て籠るとのことが聞こえたので、熊野別当が鎌倉殿(※源頼朝※)から仰せをこうむって、2~3ヶ月の間に8度襲いかかって攻め戦う。城の内の兵どもが命を惜しまず防いだので、毎度、味方が追い散らされ、熊野法師が数多く討たれた。

 熊野別当は鎌倉殿へ飛脚を奉って、「当国湯浅の合戦のこと、2~3ヶ月の間に8度襲いかかって攻め戦ったが、城の内の兵どもが命を惜しまず防ぐ間、毎度、味方が追い落とされて、敵を征服することができません。近国2、3カ国の兵を給わって攻め落とすべきです」ということを申し上げたところ、鎌倉殿は「そんなことをしたら、国の負担が人の煩いとなるだろう。立て籠る凶徒はきっと海山の盗人であろう。山賊海賊を厳しく取り締まって城の口を固めてまもれ」とおっしゃった。その通りにしたところ、ほんとうに後には人が1人もいなかった。

 鎌倉殿は謀に、「小松殿の君達で、1人でも2人でも生き残りなさっている者は、助けてさしあげよ。池の禅尼の使いとして頼朝を流罪になだめられたのは、ひとえにかの内府の芳恩であるので」とおっしゃったので、丹後侍従は六波羅へ出て名乗られた。すぐに関東へ下し申し上げた。

 鎌倉殿が対面して「都へお上りください。田舎のほうに思いついたところがあります」といって、騙して上京させ申し上げて、後から追うように人を上らせて勢田の橋の辺で斬ってしまった。

 (現代語訳終了)

公家の日記にある記述

 平安時代末期の公家・吉田経房(よしだ つねふさ:1142年 - 1200年)の日記『吉記(きっき)』には文治元年(1185年)12月8日の項に、「同日、小松内府息忠房招引関東事」とあり、16日に「忠房被切首事」との記述があります。

 

 

(てつ)

2009.1.15 UP
2020.2.2 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉