■ 熊野の観光名所

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◆ 闘鶏神社(とうけいじんじゃ)  和歌山県田辺市湊神田665番地


 闘鶏神社の「鶏」の字は本当は

 社伝によると允恭天皇8年(423年)創建とありますが、『紀伊国続風土記』には、熊野別当18代 湛快(たんかい)のときに熊野三所権現を勧請したと記されているそうです。

 熊野三山の別宮的な場所で、ここから本宮への中辺路は山中の道になるので、この宮に参詣し、三山を遥拝して引き返す人々もいたようです。

 鳥居をくぐると、左手に大楠。社殿は、正面にはなく、右手に並んでいます。
 大楠は、落雷により中央部を失ったため高さはないですが、幹回り、枝振りは見事なもので、樹齢1200年ほどと推測されています。歯病平癒の御利益があるとされ、楠の下に立って楠の葉を患部に付け、祈願すると平癒するとか。

 正面奥には湛増(たんぞう。湛決の子。21代熊野別当)と弁慶(弁慶は湛増の子だと伝えられています)の銅像があります。二人の前では二羽の鶏が闘っています。これが闘鶏神社という一風変わった社名の由来を表わしています。

 社殿は6棟。向かって左から西御殿、本殿、上御殿、中御殿、下御殿、八百萬殿。拝殿は本殿の前に
 あります。祭神は以下のとおり。

祭神名
西御殿 速玉之男命・事解之男神
本殿 伊邪那美命
上御殿 伊邪那岐命・天照皇大神・宇賀御魂命
中御殿 瓊々杵尊命・鵜草葺不合命・火々出見尊・天之忍穂耳命
下御殿 火産霊命・弥都波能売命・稚産霊命・埴山比売命
八百萬殿 手力男命八百万神

 他に境内社として、藤厳神社、玉置神社、弁天神社、戎神社があります。

 古くは田辺の宮、新熊野権現(いまくまのごんげん)田辺の宮などと呼ばれていた闘鶏神社でしたが、次に記す故事により、新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)、新熊野闘鶏権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)などと称されるようになりました。闘鶏神社となったのは明治に入ってから。神仏分離令によりそのように改名させられました。
 闘鶏神社という社名は次のような故事によります。

 源平の合戦も大詰めに入ったころ、熊野別当 湛増が平氏に味方するか源氏に味方するかを迷い、占いをたて、神意を問うことにした。その占いとは、社前で赤白の鶏をたたかわせ、赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて勝ったほうに味方するというものであった。赤白の鶏を相対峙させてみると、赤の鶏は白の鶏を見て逃げだした。これを見て、湛増は源氏に味方することを決めたという。

 この故事により闘鶏権現という呼び名が生まれました。
 湛増は200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣。平氏を壇の浦に沈めたのでした。

 社殿背後の仮庵山(かりほやま)について。
 熊野が生んだ世界的博物学者・ 南方熊楠(みなかたくまぐす。1867〜1941)は仮庵山のことをクラガリ山と呼んでいますが、クラガリ山について熊楠は「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と述べています。クラガリ山の老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に講議しました。そのおかげでそれ以上の伐採は免れたようです。

 熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり、熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」としました。

 (てつ)

2002.6.16 更新
2003.5.14 更新

 ◆ 参考文献

加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版
中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』河出文庫
   熊楠のクラガリ山についての引用は391頁
松居竜五・月川和雄・中瀬喜陽・桐本東太=編『南方熊楠を知る事典』講談社現代新書

アクセス:JR紀伊田辺駅から徒歩5分
tel 0739-22-0155
駐車場:あり(有料)
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