■ 熊野の説話 |
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◆ 花山法皇の熊野御幸 |
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熊野古道、中辺路(なかへち)。大坂本王子と近露王子の間。箸折峠(はしおりとうげ)に牛と馬にまたがった童子の像があります。 968年、冷泉天皇の第一子として生まれた師貞(もろさだ)親王(後の花山天皇)。 牛馬童子像のある「箸折峠」という地名も花山法皇に由来するものです。 皇位を追われた花山法皇は、わずかな供を連れて熊野に向かった。 花山天皇が生きた時代は、藤原氏が摂関政治を行っていた時代でした。 「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」と詠み、「この世は私のものだ」と宣言した藤原道長。 花山天皇の御代。摂政は外祖父・藤原伊尹(これただ or これまさ)が務めていました。 円融天皇と詮子との間には懐仁(かねひと)親王が生まれ、円融天皇が花山天皇の譲位するのと同時に、当時5歳の懐仁親王を皇太子とすることができました。 そこで、兼家は懐仁親王の即位を早めるために策動します。 花山天皇の側に仕えていた藤原道兼(みちかね)は、ともに出家しようと花山天皇を誘います(この道兼、兼家の子です)。道兼は夜中、天皇を宮中から連れ出します。道兼と花山天皇は京都東山の元慶寺(がんぎょうじ=花山寺)へ向かいます。 花山天皇の出家の翌日に、兼家は、娘の詮子が生んだ懐仁親王に三種の神器を渡して即位させてしまいました。この天皇が一条天皇で、即位時、わずか7才。兼家は摂政となって一条天皇を後見しながら政治を行なっていったのです。 追われるように京を発ち、熊野に向かった花山法皇。熊野詣の旅の途中に詠んだ歌をいくつか残しています。
(『後拾遺和歌集』巻第九 羇旅 503)
と寂しい歌を詠み、
(『続拾遺和歌集』二十 神祀) いよいよ那智に入って、
(『夫木抄』四)
(『詞花和歌集』巻第九 雑上 276) 深く傷付いていた法皇の心は、熊野の地で、癒しを覚えたのでしょう。よほど那智が気に入ったのか、花山法皇は那智の山中、那智の滝の上流にある「二の滝」近くに庵を結び、千日の修行をしました。 一千日の修行を終えた花山法皇は、西国三十三ケ所観音霊場巡礼の旅に出、各地で歌を詠んだ。それが御詠歌のはじまりで、那智山青岸渡寺(せいがんとじ)は三十三ケ所巡礼の第一番札所となったという。そういう伝説が伝えられています。ちなみに青岸渡寺の御詠歌は、
那智での修行中には、天狗が現われ、修行の邪魔をしたという伝説もあります。 那智山中で修行をしている花山上皇のもとに天狗が現われて、様々な妨害をした。花山院は安倍晴明を呼び寄せ、天狗の妨害を防ぐよう命じた。そこで、晴明は岩屋に多くの天狗たちを封じ込めて祈祷した。そのおかげで花山院は無事に千日の修行を終える。 那智には安倍晴明の屋敷があったとか。 花山法皇は安倍晴明とさまざまなかかわりを持っていて、二人の登場する話は他にもあります。 花山天皇は頭痛に悩まされていた。どういうわけか雨季には特にひどく苦しんだ。どのような治療を試みても効果はなかった。 また、『大鏡』には、次のようなエピソードが書かれています。 さて、道兼公がこうして天皇を連れ出し、東の方へと案内していったが、安倍晴明の家の前を通るとき、晴明の声が中からして、大きく手を叩く音が聞こえる。 晴明の守護のもと、修行に邁進した花山上皇。ときには、深山の紅葉の美しさを和歌に詠み、短冊を小枝に結び、滝に流したというそんな風流な遊びもやっていたようです。 那智での修行により花山法皇の験力は高まり、熊野権現の中堂で行われた験比べでは相手の験者を圧倒するほどの験力の強さを示したと伝えられています。 さて、その後、花山法皇は、992年ころに帰京します。京に戻ってからの花山院は、父・冷泉帝譲りの奇行が目立ち、狂気と正気との間を行き来しているかのようでした。しかしながら、父親のように完然に発狂することなく、狂気の世界に足を踏み入れながらも、ギリギリのところでどうにか踏み止まっていました。 花山院をギリギリ正気の世界にとどめていたものは、おそらく、仏道であり、大勢の女性との関係であり、また秀でた才能を発揮することのできた芸術(和歌や建築、作庭、工芸絵画)であったのでしょう。打ち込むものがあったから、正気を保つことができたのではないかと思います。 花山院は、僧籍にありながら、好色ぶりはすさまじく、大勢の女性と関係をもちました。自らの乳母とその娘の両方と関係をもって母娘ともに子をなしたりと滅茶苦茶なことをしています。 好きなことを好きなだけとことんやる。そのような生活ができたから、花山院は発狂を免れることができたのかもしれません。そうだとすると、在位2年足らずで退位したことはかえって花山院にとって幸せなことであったということができるのかもしれません。もし、もっと長い期間にわたって、様々な制約があり、自由に行動することのできない天皇の位に就いていたら、父・冷泉帝のように発狂していたのではないかと思います。 さて、999年、花山法皇はふたたび熊野詣を企てましたが、ときの関白・藤原道長によって阻止され、断念。1008年、41才で亡くなりました。亡くなるとき、花山院は遺言状に「私が死んだら、私の女宮たちを49日の間にみな、あの世へ連れていく」と書き、この言葉どうり、花山院の女宮たちはみな、まもなく死んでいったと伝えられています。 (てつ) 2000.8 更新 ◆ 参考文献
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