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花山法皇の熊野御幸

花山法皇の熊野御幸

月岡芳年画『月百姿  花山寺の月』より

 熊野古道中辺路(なかへち)。大坂本王子と近露王子の間。箸折峠(はしおりとうげ)に牛と馬にまたがった童子の像があります。
 「牛馬童子像」と呼ばれるこの像は花山法皇(968~1008)の姿を表したものだとされています。牛馬童子像のある「箸折峠」という地名も花山法皇に由来するものだとされます。

 皇位を追われた花山法皇は、わずかな供を連れて熊野に向かった。
 その途中、この峠までやって来たとき、ちょうど昼時で、食事をしようとしたが、を忘れたことに気が付いた。そこでやむなく供の者が茅を折って箸代わりに上皇に捧げた。そのとき、茅の茎から、血のようなものがしたたり落ちた。いぶかしく思った上皇は供の者に「これは血か、露か」と尋ねた。
 以来、その峠を箸折峠と呼び、峠を下ったところにある里を「近露」と呼ぶようになった。

花山天皇の出家

 968年、冷泉天皇の第一子として生まれた師貞(もろさだ)親王(後の花山天皇)。
 翌年、冷泉天皇が発狂したために、当時11歳の冷泉天皇の同母弟・円融天皇に譲位。同時に師貞親王は2歳で皇太子となりました。
 984年、円融天皇は、藤原氏の内紛に巻き込まれ、26歳の若さで譲位。師貞親王が17歳で花山天皇として即位しました。しかし、986年、花山天皇も、藤原氏の策動により在位2年を待たずに19歳の若さで退位、出家し、法皇となりました(退位した天皇を上皇といい、上皇が出家すると法皇と呼びます)。

 花山天皇が生きた時代は、藤原氏が摂関政治を行っていた時代でした。
 藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ、生んだ子を天皇に即位させ、天皇の外戚(母方の親戚)という立場を利用して摂政・関白(摂政は、天皇が子供だったり、女の人だったりした時に、代理で政治をする人のこと。関白は、天皇が成人男子の場合に代理で政治をする人のこと)となり、天皇を後見しながら国政を担当していました。

 「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」と詠み、「この世は私のものだ」と宣言した藤原道長。
 摂関政治は道長の時代に全盛期を迎えますが、この道長の父・兼家(かねいえ)が摂政になる際に、花山天皇は退位させられるのです。

 花山天皇の御代。摂政は外祖父・藤原伊尹(これただ or これまさ)が務めていました。
 当時、右大臣までのぼっていた兼家は、自分の娘・詮子(せんし)を円融天皇に嫁がせていて、いずれは外孫を即位させ、天皇の外祖父となり、摂政に就任し、政権を握ろうと目論んでいました。

 円融天皇と詮子との間には懐仁(かねひと)親王が生まれ、円融天皇が花山天皇の譲位するのと同時に、当時5歳の懐仁親王を皇太子とすることができました。
 これで、あとは花山天皇が懐仁親王に譲位すれば、兼家は摂政となれるわけです。
 藤原伊尹が摂政に就任した翌々年、伊尹は病死。伊尹に代わって政権を握ろうと兼家が動きだします。
 兼家が摂政になるには、花山天皇を退位させ、自分の孫である懐仁親王を新たな天皇として即位させなければなりません。いつまでも花山天皇に在位されていては困ります。

 そこで、兼家は懐仁親王の即位を早めるために策動します。
 花山天皇は、そのころ、最愛の妃が亡くなったのをきっかけに、この世を厭うようになっており、出家の志をもつようになっていました。神道の中心的存在である天皇は在位したままでは僧籍に入ることはできません。出家するには退位しなければなりません。上皇なら出家することもできました。兼家は、花山天皇の出家の志を利用します。

 花山天皇の側に仕えていた藤原道兼(みちかね)は、ともに出家しようと花山天皇を誘います(この道兼、兼家の子です)。道兼は夜中、天皇を宮中から連れ出します。道兼と花山天皇は京都東山の元慶寺(がんぎょうじ=花山寺)へ向かいます。
 元慶寺に到着すると、まずはじめに花山天皇が髪をそって出家しました。そして、つぎに道兼が出家するはずだったのですが、道兼は用があると言って、退出してしまいました。もちろん、道兼は帰ってきませんでした。だまされたことに気づいた花山天皇は慟哭したといいます。

 花山天皇の出家の翌日に、兼家は、娘の詮子が生んだ懐仁親王に三種の神器を渡して即位させてしまいました。この天皇が一条天皇で、即位時、わずか7才。兼家は摂政となって一条天皇を後見しながら政治を行なっていったのです。

花山法皇が熊野詣の道中に詠んだ歌

 追われるように京を発ち、熊野に向かった花山法皇。熊野詣の旅の途中に詠んだ歌をいくつか残しています。

  熊野の道にて、御心地例ならずおぼされけるに、
  海士(あま)の塩焼きけるを御覧じて、

旅の空よはの煙(けぶり)とのぼりなばあまの藻塩火(もしほび)たくかとや見ん

『後拾遺和歌集』巻第九 羇旅 503)

 (訳:この度の途中で息絶え、火葬の煙りとなって立ちのぼったとしたら、海人が海藻から塩をとるための火をたいているかと見るだろうか。)

 と寂しい歌を詠み、
 西牟婁郡上富田(かみとんだ)町、岩田河(富田川)では、

岩田河渡る心の深ければ神もあはれと思はざらめや

(『続拾遺和歌集』二十 神祀)

 いよいよ那智に入って、

石走る滝にまがいて那智の山高嶺を見れば花の白雲

(『夫木抄』四)

木(こ)のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな

(『詞花和歌集』巻第九 雑上 276)

那智山での千日修行

 深く傷付いていた法皇の心は、熊野の地で、癒しを覚えたのでしょう。よほど那智が気に入ったのか、花山法皇は那智の山中、那智の滝の上流にある「二の滝」近くに庵を結び、千日の修行をしました。

 一千日の修行を終えた花山法皇は、西国三十三ケ所観音霊場巡礼の旅に出、各地で歌を詠んだ。それが御詠歌のはじまりで、那智山青岸渡寺(せいがんとじ)は三十三ケ所巡礼の第一番札所となったという。そういう伝説が伝えられています。ちなみに青岸渡寺の御詠歌は、

補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬

 那智での修行中には、天狗が現われ、修行の邪魔をしたという伝説もあります。

 那智山中で修行をしている花山上皇のもとに天狗が現われて、様々な妨害をした。花山院は安倍晴明を呼び寄せ、天狗の妨害を防ぐよう命じた。そこで、晴明は岩屋に多くの天狗たちを封じ込めて祈祷した。そのおかげで花山院は無事に千日の修行を終える。
 花山院も晴明も去った後のこと、那智の行者が不法や懈怠の行いをしたとき、岩屋に封じ込められた天狗たちが怒って騒ぎ出したという。

 那智には安倍晴明の屋敷があったとか。

花山法皇と安倍晴明

 花山法皇は安倍晴明とさまざまなかかわりを持っていて、二人の登場する話は他にもあります。
 花山法皇(968~1008)と安倍晴明(921~1005)。
 二人とも、那智の山中に千日こもって修行をしたと伝えられ、二人とも、前世では大峰(吉野と熊野を結ぶ山脈。修験の山)の行者だったと伝えられています。
 『古事談』(巻六、第六十四)にはこんな話があります。花山院が天皇の位にあったときのことです。

 花山天皇は頭痛に悩まされていた。どういうわけか雨季には特にひどく苦しんだ。どのような治療を試みても効果はなかった。
 そこで晴明がみてみると、花山天皇の前世は尊い行者だったそうで、前生の髑髏が大峰の山中の岩のはざまに落ちはさまっているので、雨降りの日には岩が膨らんで間がつまるので、花山天皇は頭痛を病み、とくに雨季には苦しまれるのだということであった。髑髏を岩の間から取り出し、広い場所に置いたら直るとのことで、その髑髏のある場所も言い当てた。晴明のいう通りにすると、頭痛はなくなったという。

 また、『大鏡』には、次のようなエピソードが書かれています。
 藤原兼家らの策動にはまり、宮中を抜け出した夜のこと。

 さて、道兼公がこうして天皇を連れ出し、東の方へと案内していったが、安倍晴明の家の前を通るとき、晴明の声が中からして、大きく手を叩く音が聞こえる。
 「帝が退位なさるとの天変があったが、もうすでに現実のものとなってしまったらしい。参内して奏上しよう。車の支度をせよ」
 そう言っている声が聞こえる。
 その声を聞いたとき、天皇はあらためて感無量に思ったことだろう。
 「とりあえず、式神が一人、内裏へ参れ」
 晴明が命じると、目にみえないものが晴明の家の戸を開けて出てきたが、天皇の後ろ姿を見たのだろうか、
 「たったいま、当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」
 と、答える声がしたとか。
 晴明の家は土御門通りと町口通りの交叉する角にあったので、たしかに、宮中脱出の道筋にあった。

 晴明の守護のもと、修行に邁進した花山上皇。ときには、深山の紅葉の美しさを和歌に詠み、短冊を小枝に結び、滝に流したというそんな風流な遊びもやっていたようです。

 那智での修行により花山法皇の験力は高まり、熊野権現の中堂で行われた験比べでは相手の験者を圧倒するほどの験力の強さを示したと伝えられています。

京に戻ってからの花山法皇

 さて、その後、花山法皇は、992年ころに帰京します。京に戻ってからの花山院は、父・冷泉帝譲りの奇行が目立ち、狂気と正気との間を行き来しているかのようでした。しかしながら、父親のように完然に発狂することなく、狂気の世界に足を踏み入れながらも、ギリギリのところでどうにか踏み止まっていました。

 花山院をギリギリ正気の世界にとどめていたものは、おそらく、仏道であり、大勢の女性との関係であり、また秀でた才能を発揮することのできた芸術(和歌や建築、作庭、工芸絵画)であったのでしょう。打ち込むものがあったから、正気を保つことができたのではないかと思います。

 花山院は、僧籍にありながら、好色ぶりはすさまじく、大勢の女性と関係をもちました。自らの乳母とその娘の両方と関係をもって母娘ともに子をなしたりと滅茶苦茶なことをしています。
 和歌に関しては、『古今和歌集』『後撰和歌集』に継ぐ第三の勅撰集『拾遺和歌集』(1005~1006に成立)を自らの手で編纂したとされ(普通は、天皇が歌人に命じて編纂させます)、自らの歌集も作りました(現存していませんが)。

  好きなことを好きなだけとことんやる。そのような生活ができたから、花山院は発狂を免れることができたのかもしれません。そうだとすると、在位2年足らずで退位したことはかえって花山院にとって幸せなことであったということができるのかもしれません。もし、もっと長い期間にわたって、様々な制約があり、自由に行動することのできない天皇の位に就いていたら、父・冷泉帝のように発狂していたのではないかと思います。

 さて、999年、花山法皇はふたたび熊野詣を企てましたが、ときの関白・藤原道長によって阻止され、断念。1008年、41才で亡くなりました。亡くなるとき、花山院は遺言状に「私が死んだら、私の女宮たちを49日の間にみな、あの世へ連れていく」と書き、この言葉どうり、花山院の女宮たちはみな、まもなく死んでいったと伝えられています。

上皇・女院の熊野御幸の回数

■熊野御幸を行った上皇の名とその回数 熊野御幸を行った女院の名とその回数

・宇多法皇(1)
花山法皇(1)
白河上皇(9)
鳥羽上皇(21)
崇徳上皇(1)
後白河上皇(33 or 34)
後鳥羽上皇(28)
後嵯峨上皇(2)
・亀山上皇(1)

※907年の宇多法皇から1281年の亀山上皇までの374年の間におよそ100度の上皇による熊野御幸が行われました。熊野御幸の数は資料により異なります。

・待賢門院(12)
・美福門院(4)
・上西門院(1)
建春門院(4)
・八条院(2)
・七条院(5)
・殷富門院(4)
・修明門院(11)
・承明門院(1)
・陰明門院(1)

(てつ)

2000.8 更新
2002.9.27 更新
2002.9.30 更新

参考文献