■ 熊野の説話 |
||||||||
|
|
||||||||
◆ 崇徳上皇の熊野御幸 |
||||||||
崇徳(すとく)上皇(1119〜68)が熊野を詣でたのはわずかに1回。 崇徳天皇は1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。母は待賢門院 璋子(たいけんもんいん・しょうし)。治天の君である曾祖父の白河上皇(1034〜1129)の意志により、1123年、鳥羽天皇を20歳の若さで退位させ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。 これにより崇徳は鳥羽上皇の恨みを買います。譲位させられた鳥羽上皇は、白河上皇存命のうちは何の権限ももてません。もう天皇ではなく、かといって治天の君として権力を振るうこともできない。鳥羽上皇はそうとう悔しい思いをしたことでしょう。 また、これも、崇徳に何の責任もないことですが、崇徳はじつは鳥羽の子ではなかったらしいのです。崇徳は鳥羽の子ではなく、白河上皇の子らしい。そう噂されました。 白河上皇はよりにもよって自分の愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の皇后にしてしまうのです。鳥羽天皇は祖父の愛妾を皇后にしたことになります。 自分の后が祖父の子を生んだなどと考えたら、その子を疎ましく思うのも仕方ありません。 白河上皇の死後、鳥羽上皇は治天の君となり、これまでの鬱憤を晴らすかのように専制君主として振る舞います。高陽院 泰子を入内させ、白河上皇にうとまれ陰棲していた泰子の父・藤原忠実を重用。反白河体制で院政を行います。 しかし、近衛天皇が1155年、わずか16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく亡くなってしまいます。 望みが断たれた崇徳上皇は翌年、1156年(保元元年)7月、鳥羽上皇の死をきっかけにこれまでの不満を爆発させ、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵しました。藤原摂関家や武家の源氏や平氏が父子・兄弟、天皇側・上皇側の二手に分かれ、都を舞台に戦いました。これが保元の乱です。 配所で祟徳上皇は後生の菩提のために3年の歳月をかけて五部の大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)を写経し、これを都に送りましたが、後白河天皇の近臣・藤原信西(しんぜい)に受け取りを拒否され、五部の大乗経は突き返されます。 このとき以来、髪も爪も切らず伸ばし放題にし、怨念の炎に身を焦がし、身はやつれ、日々に凄まじい形相になっていったといいます。 状況調査のために派遣された平康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告しています。 崩御ののち、陵墓は白峰山(しらみねさん。香川県坂出市)に造られましたが、諡号(生前の徳をたたえる称号)は贈られず讃岐院と呼ばれました。 崇徳上皇死後、崇徳と生前交流のあった西行は、崇徳の跡を尋ね、讃岐に渡ります。『山家集』より、
松山の波に流れて来(こ)し舟のやがて空しく成(なり)にける哉(かな)
(1353) 松山の波の景色は変わらじを形無く君はなりましにけり
(1354)
よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん
(1355) そんな西行の想いは、崇徳上皇の御霊に届いたのか、届かなかったのか、崇徳院の死後、都では凶事が相次ぎました。 朝廷は怨霊を鎮めるため、1177年、「崇徳院」の諡号を贈りましたが、それでも、凶事は続きます。平清盛による後白河上皇の幽閉、飢饉・・・。飢饉による平安京の餓死者は42300人に達したといいます。 1183年には崇徳上皇の霊を慰めるために保元の乱の戦場跡に粟田宮をつくりました(このとき別当のひとりにに西行の子・慶縁が選ばれたそうです)。しかし、そののちも、時折、崇徳上皇の霊威は発動され、崇徳院の御霊は天皇御霊のなかでも特に怖れられ、ことあるごとに、崇徳院の祟りではないかと噂されました。江戸時代になってからも、歴代の高松藩主は白峰陵を手厚く祀っています。 明治と年号が改まる約半月前の慶応4年(1868)8月26日(崇徳上皇の命日)、明治天皇は、京都の皇宮近くに造営した白峰神宮に、讃岐白峰から崇徳上皇の神霊を向かい入れました。崇徳院の怨霊を鎮め、反対に祀り上げて朝廷の守護神とするためです。 崇徳上皇の怨霊を鎮めることから明治の世が始まったのでした。 さて、話戻って、崇徳が1度きりの熊野参詣を行ったのは、1143年、崇徳が譲位させられてから2年後のこと。父・鳥羽上皇が前年、出家し、法皇となったのですが、法皇となって最初の熊野御幸に、鳥羽は崇徳を同道させました。出家をきっかけに鳥羽は崇徳との和解を目指していたのでしょうか。しかし、崇徳の熊野御幸は、これが最初で最後になってしまいました。 (てつ) ◆ 参考文献
|
スポンサード リンク 関連商品 |
|||||||
| |
||||||||