み熊野ねっと 熊野の深みへ

blog blog twitter facebook instagam YouTube

崇徳上皇の熊野御幸

わずかに1度の熊野詣

崇徳上皇像(『天子摂関御影』より)

 崇徳(すとく)上皇(1119~68)が熊野を詣でたのはわずかに1回。
 父の鳥羽上皇の21回、弟の後白河上皇の34回にくらべて少な過ぎるように思いますが、崇徳上皇は院政期にあって治天の君(院政を行う上皇のこと)にはなれなかった上皇です。院政期にあって治天の君になれなかった上皇で熊野詣をすることができたのは、ただひとり崇徳だけです。後白河院政下、上皇となった二条・六条・高倉の各上皇は熊野を詣でず、後鳥羽院政下、上皇となった土御門・順徳も熊野を詣でていません。
 崇徳上皇ただ1度の熊野参詣は、父・鳥羽上皇の熊野御幸に同道したものです。

 崇徳天皇は1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。母は待賢門院 璋子(たいけんもんいん・しょうし)。治天の君である曾祖父の白河上皇(1034~1129)の意志により、1123年、鳥羽天皇を20歳の若さで退位させ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。

 これにより崇徳は鳥羽上皇の恨みを買います。譲位させられた鳥羽上皇は、白河上皇存命のうちは何の権限ももてません。もう天皇ではなく、かといって治天の君として権力を振るうこともできない。鳥羽上皇はそうとう悔しい思いをしたことでしょう。
 しかし、治天の君・白河上皇は巨大すぎて、直接、怒りをぶつけることはできません。怒りの鉾先は子供の崇徳に向けられたのでした。5歳の崇徳に何の責任もなく、完全に逆恨みですが。

 また、これも、崇徳に何の責任もないことですが、崇徳はじつは鳥羽の子ではなかったらしいのです。崇徳は鳥羽の子ではなく、白河上皇の子らしい。そう噂されました。
 崇徳の母・待賢門院 璋子は、白河上皇の寵妃・祇園女御の養女であり、白河上皇にとって璋子は養女のようなものでした。しかし、白河上皇は璋子とまで性的関係を結んでしまいました。

 白河上皇はよりにもよって自分の愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の妃にしてしまうのです。鳥羽天皇は祖父の愛妾を皇后にしたことになります。
 そして、その后が第一皇子(のちの崇徳天皇)を生みますが、その子はじつは祖父の白河上皇の子であると噂され、鳥羽の耳にもその噂が入ります。

 自分の后が祖父の子を生んだなどと考えたら、その子を疎ましく思うのも仕方ありません。
 そのため、鳥羽はその子を叔父子(叔父でもあり子供でもある。崇徳が白河院の子だとしたら、鳥羽にとって父の弟になります)と呼んで嫌いました。
 不義密通の子であり、自分から皇位を奪った崇徳を鳥羽は露骨に嫌いました。臨終の際の拝顔さえ許さなかったといいます。

 白河上皇の死後、鳥羽上皇は治天の君となり、これまでの鬱憤を晴らすかのように専制君主として振る舞います。高陽院 泰子を入内させ、白河上皇にうとまれ陰棲していた泰子の父・藤原忠実を重用。反白河体制で院政を行います。
 1141年、鳥羽上皇は22歳の崇徳天皇を退位させ、待賢門院亡きあと寵を得た美福門院 得子(びふくもんいん・とくし)との間にできた第九皇子の近衛天皇(崇徳にとっては異母弟)を2歳で即位させます。崇徳は、もう天皇でもなく治天の君でもないというかつて鳥羽上皇自身もした悔しい思いを味わわされます。

 崇徳が譲位させられてから2年後の1143年、崇徳上皇が1度きりの熊野参詣を行いました。父・鳥羽上皇が前年、出家し、法皇となったのですが、法皇となって最初の熊野御幸に、鳥羽は崇徳を同道させました。出家をきっかけに鳥羽は崇徳との和解を目指していたのでしょうか。しかし、崇徳の熊野御幸は、これが最初で最後になってしまいました。

讃岐国に配流

 その後、近衛天皇が1155年、わずか16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく亡くなってしまいます。
 崇徳上皇は自分の子の即位を期待していましたが、鳥羽上皇はその望みを無視。第四皇子・後白河天皇(崇徳の同母弟)を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子(のちの二条天皇)とします。
 この後白河天皇、今様にうつつをぬかし、「文にもあらず、武にもあらぬ四の宮」「即位の器量にあらず」と評されるようなうつけものです。そんなうつけものに即位させてまでも、鳥羽上皇は、崇徳の子には皇位を継承させたくなかったのでしょう。
 崇徳の子が天皇になるということは、鳥羽上皇没後は、崇徳が治天の君になるということです。崇徳が治天の君として院政を行う。そんなことには絶対にさせない、と鳥羽上皇は考えていたのでしょう。

 望みが断たれた崇徳上皇は翌年、1156年(保元元年)7月、鳥羽上皇の死をきっかけにこれまでの不満を爆発させ、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵しました。藤原摂関家や武家の源氏や平氏が父子・兄弟、天皇側・上皇側の二手に分かれ、都を舞台に戦いました。これが保元の乱です。
 この戦いはじつにあけなく後白河天皇側の勝利に終わり、上皇側についた藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は斬首、そして 崇徳上皇は讃岐国(香川県)に配流されました。

 配所で祟徳上皇は後生の菩提のために3年の歳月をかけて五部の大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)を写経し、これを都に送りましたが、後白河天皇の近臣・藤原信西(しんぜい)に受け取りを拒否され、五部の大乗経は突き返されます。
 祟徳上皇は激怒し、「我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛(なげう)って、日本国の大悪魔とならん」と、舌を噛み切り、流れる血で、突き返された五部の大乗経に呪詛の誓いの言葉を書きつけ、瀬戸の海に沈めました。

 このとき以来、髪も爪も切らず伸ばし放題にし、怨念の炎に身を焦がし、身はやつれ、日々に凄まじい形相になっていったといいます。 状況調査のために派遣された平康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告しています。
 崇徳上皇は、死後の祟りを誓って、8年間の配所暮らしの後に1164年8月26日、46歳で亡くなりました(二条天皇の命により暗殺されたとの説もあります)。

 崩御ののち、陵墓は白峰山(しらみねさん。香川県坂出市)に造られましたが、諡号(生前の徳をたたえる称号)は贈られず讃岐院と呼ばれました。
 崇徳上皇の遺体は葬儀に関する朝廷からの指示を待つ間、木陰の下の泉に20日間漬けておかれましたが、その間、全く様子が変わらず生きているかのようであったといい、死骸を焼く煙は御念のためか都の方にたなびいていったといい、その柩からは血が流れ出し、柩を置いた台を真っ赤に染めたといいます。

西行の歌

 崇徳上皇死後、崇徳と生前交流のあった西行は、崇徳の跡を尋ね、讃岐に渡ります。『山家集』より、

   讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ、

松山の波に流れて来(こ)し舟のやがて空しく成りにけるかな (1353)

(訳)松山に波に流れてきた舟(院)はやがてむなしく朽ち果ててしまったことよ。

松山の波の景色は変わらじを形無く君はなりましにけり (1354)

(訳)松山の波の景色は変わらないだろうが、形なくわが君はなってしまったことよ。

   白峯と申しける所に御墓の侍りけるにまゐりて

よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何かはせん (1355)

(約)『かりにわが君が昔の宝玉で飾られた床(皇居)におられたとしても、このように亡くなってしまった後では何になりましょう(何にもなりません。どうか皇位への執着など断ち切ってください)。

崇徳上皇の霊威

 そんな西行の想いは、崇徳上皇の御霊に届いたのか、届かなかったのか、崇徳院の死後、都では凶事が相次ぎました。
 23歳という若さでの二条上皇の病没、延暦寺衆徒の強訴、天然痘の流行、大火、・・・(配所暮らしのさなかには平治の乱もありました。五部の大乗経の受け取りを拒否した藤原信西は殺され、保元の乱で後白河側に付いた源義朝も殺されます)。都の人々は、崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のなすところと怖れおののきました。

 朝廷は怨霊を鎮めるため、1177年、「崇徳院」の諡号を贈りましたが、それでも、凶事は続きます。平清盛による後白河上皇の幽閉、飢饉・・・。飢饉による平安京の餓死者は42300人に達したといいます。

 1183年には崇徳上皇の霊を慰めるために保元の乱の戦場跡に粟田宮をつくりました(このとき別当のひとりに西行の子・慶縁が選ばれたそうです)。しかし、そののちも、時折、崇徳上皇の霊威は発動され、崇徳院の御霊は天皇御霊のなかでも特に怖れられ、ことあるごとに、崇徳院の祟りではないかと噂されました。江戸時代になってからも、歴代の高松藩主は白峰陵を手厚く祀っています。

 明治と年号が改まる約半月前の慶応4年(1868)8月26日(崇徳上皇の命日)、明治天皇は、京都の皇宮近くに造営した白峰神宮に、讃岐白峰から崇徳上皇の神霊を向かい入れました。崇徳院の怨霊を鎮め、反対に祀り上げて朝廷の守護神とするためです。 崇徳上皇の怨霊を鎮めることから明治の世が始まったのでした。

(てつ)

2020.4.19 更新

参考文献