■ 熊野旅行記 |
||||||
|
|
||||||
◆ 後白河上皇『梁塵秘抄口伝集』 |
||||||
|
後白河上皇(1127〜1192)の撰述に成る『梁塵秘抄』は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、今日現存するのは、わずかに歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十のみ。 後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。 私は永暦元年10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発した。25日、厩戸王子の宿で、左衛門尉であった藤原為保(ためやす)は、自分が連れていた先達の夢に王子が現われ、 「もとより道中の王子社では、歌舞の奉納などすることをするということだが、御所さまの今様などはあってしかるべきものを」 そのときに、連れだっていた平清盛(のちの太政大臣。当時はまだ大弐と呼ばれていた)にこの夢のことを相談してみたところ、
この話を清盛は資賢(すけかた)卿に語って、驚かれたことだった。 2回目の熊野詣は1162年のこと。 応保2年正月21日より精進を始めて、同27日に発つ。 次々に奉幣なども終わり静まって、そろそろ夜半を過ぎただろうかと思われたころ、神殿のほうを見やると、わずかの火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える。しみじみと心が澄んで、涙も止まらず、泣きながら千手経を読んでいたところ、資賢が通夜を終えて、明け方に礼殿に参りに来た。
繰り返し繰り返し、何度も歌う。資賢・通家が和して歌う。心澄ましてあったせいだろうか、いつもよりもすばらしく趣深かった。 次は12回目。1169年、院43歳のときのこと。 仁安4年正月9日より精進を始めて、同14日に発つ。26日に幣を奉る。今度が12回目にあたり、出家の暇乞いを申しあげに参る。いつものように王子社での今様、礼殿での音楽などはたびたびあった。 こちらは暗くて、かがり火の御神体の鏡、十二所権現おのおのが光を輝かして、神々の姿が映るかのように見える。あれこれの奉幣の物音が次々に聞こえる。神仏を供養する般若心経、もしくは千手経・法華経、各自の意向に応じて尊い。 明け方に人がみな静かになって、人の音もしないで、心澄ましてこの伊地古を特別に歌ったところ、両所権現のうちの西の御前(結の宮)のほうで、えもいわれぬ麝香(じゃこう)の香がする。 後白河上皇はこの3度の熊野で起こった不思議な出来事を語っています。これを読んでわかったのは、神とは夢かうつつかの半覚醒状態の時に現われるものなのだということ。
(巻第二 26) 後白河上皇は、この口伝集の他にところで、今様についてこう述べています。 この今様、今日行われているのは娯楽一本というわけではない。心を尽くして神社・仏寺に参って歌うと、示現(神仏が霊験を現わすこと)を被り、望みが叶わないということがない。官職を望むことも、命を延ばすことも、病をたちどころに治すことも可能だ。 後白河上皇の望むことは、極楽往生。 今はよろづを抛(な)げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。 そのための34回にわたる熊野詣だったのでしょうか。 (てつ) 2005.8.27 UP ◆ 参考文献
|
Loading...
Loading...
|
スポンサード リンク |
||||
|
||||||
|
|
||||||