■ 熊野の説話 |
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◆ 一遍上人、熊野成道 |
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南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのは、じつは、修験道でもなく、ましてや神道でもなく、時衆(のちに時宗)という仏教の一派でした。 時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖なる場所と認識していました。 一遍は、四国は伊予(愛媛県)松山の豪族で河野水軍の将・河野家の出身。10歳のとき、母の死に無常を感じて出家。13歳で浄土宗に入門。25歳のとき、父が亡くなり、家督を継ぐために生国に帰り、還俗。豪族武士として生活しますが、33歳で再び出家。三人の尼僧(二人の成人女性と少女一人。妻と娘と下女と思われます)を連れて伊予を出ます。 一遍上人ら一行は、融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の聖(ひじり)として「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。 浄土の東門とされ念仏聖の拠点であった四天王寺を経て、やはり念仏聖の拠点であった高野山を詣でた後、一遍一行は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野本宮へ向かいました。熊野本宮に向かう道中、一遍にとってショックな出来事がありました。 熊野の山中、一遍上人たちは、市女笠に足首のあたりまで届く長い垂絹を垂らした二人の高貴な女性と三人の従者を従えた一人の僧にゆきあいます。一遍はいつものように念仏札を手渡そうとしました。 文永十一年(1274)の夏、高野山を過ぎて熊野へ参詣しなさる。山海千重の雲路をしのいで、岩田川の流れに衣の袖をすすぎ、数カ所の王子で礼拝をいたして、発心門の水際で心の閉ざしを開きなさる。藤代岩代の叢祠(そうし)には垂跡の露たまを磨き、本宮・新宮の社壇には和光の月鏡を掛けた。 古柏老松の影をたたえた殷水(いんすい。?)の波は声を譲り、錦キ玉皇(きんきぎょっこう。? キのところは漢字がないようです)の飾りを添えた巫山の雲は色をうつす。とりわけ、発遣の釈迦は降魔の明王とともに東に出て、来迎の弥陀は導いた衆生をともなって西に現われなさった。 ここに一人の僧がいた。聖が勧めておっしゃるには、「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と。 そのときに、幾人かの道行く者たちが集まってきた。この僧がもし札を受けなければ、みなが受けないであろうという事態でありましたので、本意ではなかったが、「信心が起こらなくても受けなされ」と言って、僧に札をお渡しなさった。 念仏札を拒否された。このことに一遍はとてもショックを受けました。こんなことは初めての体験でした。今までは誰もが素直に念仏札を受け取ってくれました。 念仏を勧める際の心がけについて冥慮を仰ごうとお思いになって、本宮証誠殿の御前で願意を祈請し、まだまどろまないうちに御殿の御戸を押し開いて、白髪の山伏が長頭巾をかけてお出になる。長床には山伏三百人ばかり頭を地につけて礼敬(らいぎょう)し申し上げている。 このとき、「熊野権現であられることよ」とお思いになって、一心に拝んでいらしゃると、かの山伏は聖の御前にお歩み寄りなさっておっしゃるのには、 この後、目を開いてご覧になったところ、十二、三歳ほどの童子が百人ばかり来て、手をささげて、「その念仏をください」と言って、札を手にとって、「南無阿弥陀仏」と申してどこへともなく去ってしまった。 およそ、融通念仏は、大原の良忍上人が夢定の中に阿弥陀仏の教勅をお受けになって、天治元年甲辰(きのえたつ)六月九日に初めて行いなさるときに、鞍馬寺毘沙門天王をはじめ梵天、帝釈天などが名帳に名を記しして結縁なさったという。この童子も、熊野の王子たちがお受けになったのではと思い合わせられる方もおります。 ここで、山伏姿で現われた熊野本宮の神は「一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されているのだ」と一遍に語ります。「だから、信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と。 この考え方は天台本覚思想から発展したものです。天台宗のなかで発展した「本覚思想」は、「人は生まれながらにしてすでに悟っている」と考えました。 浄土思想の中心経典「浄土三部経」のひとつ『無量寿経』に、阿弥陀仏がまだ修行中で法蔵菩薩とよばれていたときに立てた本願(「本願」とは、如来という結果になるための原因である菩薩のときに立てた誓願のこと。「以前の誓願」「もとの誓願」という意味をこめて、「本願」と訳されました)のことが記されています。 『無量寿経』によると、法蔵菩薩は衆生を救うために四十八の本願を立てました。 しかし、一遍は「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と信心の押しつけをしようとしました。 これに対し、熊野権現は「それは悪い念仏の勧め方だ。信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と諭します。 信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されているのだから、あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。 阿弥陀仏を本地とする熊野本宮の神の神勅を一遍が受けたこのときを、時宗教団では一遍成道(じょうどう。悟りを開くこと)の年とし、開宗の年としています。 一遍は熊野を発ち、信不信を選ばず、貴賤男女を問わず、会う人ごとに念仏札を配って、念仏を勧めて諸国を巡りました。 他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっていますが、一遍の踊り念仏は、リズミカルで激しい踊りに身をゆだねることで、その忘我のエクスタシーのうちに人間と阿弥陀仏の距離を一気に無化するというじつに密教的な念仏でした。 時衆は、浄土宗・浄土真宗をはるかに凌ぐ浄土教最大勢力となりましたが、一遍はなお自分の寺を持たず、諸国を遊行し続けました。最低限必要な物だけを持ち、歩き、念仏を唱え、踊り、念仏札を配る、遊行の日々。 一遍が興願僧都という僧に念仏の本当のあり方とはどういうものかと尋ねられて書いた手紙があります。一遍の教えのエッセンスが詰め込まれたすばらしい手紙ですので、全文を現代語訳します。 念仏を行する者が心がけなければならないこと示してくれということですね。承りました。 昔、空也上人がある人が念仏はどのように唱えるべきなのかと問うたところ、「捨ててこそ」とだけで、他には何ともおっしゃらなかった、と西行法師の『撰集抄(せんじゅうしょう)』に載せられています。これは本当に金言です。 念仏を行する者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の判断をも捨て、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理をも捨て、地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸々の宗派の悟りをも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそ、阿弥陀がはるか過去に立てた本願にもっともかなうのです。 このように声高に唱えれば、仏もなく我もなく、まして、念仏を声高に唱える中には理屈もありません。 また、このように愚老が申すことも心得にくければ、心得にくいままに愚老が申すことをも打ち捨て、ああだこうだと考えずに阿弥陀の本願に任せて念仏なさい。
一遍は、善悪の判断を捨てろ、といいます。 貴賤、身分の高い低いといった社会の道理を捨てろ、といいます。 女であるから往生できないとか、身分が低いから往生できないとか、そのようなことを考えてはいけない。 地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨てろ、と一遍はいいます。 声高に念仏を唱えれば、仏もなく我もないのだ、といいます。 この現世が浄土であり、外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのだ、と一遍はいいます。 あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはない、と一遍はいいます。 「遊行上人」ともいわれ、「捨聖(すてひじり)」ともいわれた一遍は生涯、歩き続けました。 生涯、自分の寺を持たなかった一遍ですが、一遍の死後、一遍の教えを受けた人たちが各地で寺を建て、教団を組織化していきました。この時衆教団は、開祖が成道し、阿弥陀仏の極楽浄土と見なされていた熊野本宮をとくべつ神聖視し、熊野信仰を庶民の間に広めていきました。 浄土教の最大勢力となった時衆ですが、蓮如(1415〜1499)が復興した浄土真宗に吸収される形でその勢力を急速に失ってしまいます。また、熊野本宮じたいが江戸中期に神仏分離を果たし神道化してしまいました。 湯の峰温泉には、熊野古道「赤木越え」(湯の峰と三越峠(みこしとうげ)を結ぶ。紀三井寺に向かう西国三十三所巡礼の道)の登り口のそばに一遍上人が爪書きしたと伝えられる磨崖名号碑(一遍上人名号碑)があります。道端に突き出た崖を磨いて刻んだ磨崖碑で、上部には阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表わす3つの梵字が刻まれ、中央には南無阿弥陀仏の六字名号。その両側にも、風化して判別がつきませんが、文字が刻まれた痕跡があります。過去の記録に求めてみると、『西国三十三所名所図絵』に、この名号碑のことが記されており、それによると、
とあります。 また、熊野古道「赤木越え」には鍋破(なべわり)と呼ばれる場所があり、鍋破地蔵という石仏が立てられていますが、その地名は一遍上人の伝説に由来します。 湯の峰に爪書きの名号を残したのち、一遍上人は「赤木越え」を歩くことになった。弟子が先に赤木越えの峠で上人を待ちながらご飯を炊いていると、ご飯が炊きあがらないうちに鍋の水がなくなっているのに気づき、慌てて水を汲みに行って帰ってきたら、鍋が割れて米も黒焦げになっていた。そこに後から発った一遍上人が追いつき、これも如来が与えたもうた試練かと、何も食べずに再び歩き始めた。このことからこの辺りは鍋割と呼ばれるようになった。 また、鍋割から「赤木越え」を三越峠へ向けてしばらく行くと、また一遍上人の伝説に由来する場所があります。そこの地名は献上(けんじょう)。そこにはかつて茶屋がありました。 三越峠の手前1里程の処に一軒の茶屋があった。一遍上人たちが通り過ぎようとするのを、茶屋の主人が引き止め、「お代は要らないから」と、茶屋へ上げ、もてなした。 現在の熊野ではかすかにその痕跡を残す程度になってしまった時宗ですが、熊野本宮と時宗のつながりは現在でも続いており、代々の時宗の管長(最高責任者)は就任にあたり、熊野本宮に参詣奉告することが習わしとなっています。また、本宮大社旧社地大斎原(おおゆのはら)には、昭和46年に時宗寺院の手によって、南無阿弥陀仏と刻まれた一遍上人神勅名号碑が建てられました。
(てつ) 2002.12.25 UP ◆ 参考文献・参考サイト
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