■ 熊野の説話

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◆ 一遍上人、熊野成道


 南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのは、じつは、修験道ではなく、もちろん神道でもなく、時衆(のちに時宗)という仏教の一派でした。
 時衆とは、一遍上人(いっぺんしょうにん。1239〜1289)を開祖とし、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教です。

 時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、説経『小栗判官』などを通して熊野の聖性を広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのでした。

 時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖なる場所と認識していました。
 それは、熊野の
本宮が、時衆の開祖とされる一遍上人がある種の宗教的な覚醒に到った場所だからです。

 一遍は、四国は伊予(愛媛県)松山の豪族で河野水軍の将・河野家の出身。10歳のとき、母の死に無常を感じて出家。13歳で浄土宗に入門。25歳のとき、父が亡くなり、家督を継ぐために生国に帰り、還俗。豪族武士として生活しますが、33歳で再び出家。三人の尼僧(二人の成人女性と少女一人。妻と娘と下女と思われます)を連れて伊予を出ます。

 一遍上人ら一行は、融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の聖(ひじり)として「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。
 融通念仏とは、一人の念仏で一人が救われるのではなく、何人もの人が互いに念仏を唱えることで、念仏の力が融通しあって、より強い力となって、人々が救われるというものです。

 浄土の東門とされ念仏聖の拠点であった四天王寺を経て、やはり念仏聖の拠点であった高野山を詣でた後、一遍一行は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野本宮へ向かいました。熊野本宮に向かう道中、一遍にとってショックな出来事がありました。

 熊野の山中、一遍上人たちは、市女笠に足首のあたりまで届く長い垂絹を垂らした二人の高貴な女性と三人の従者を従えた一人の僧にゆきあいます。一遍はいつものように念仏札を手渡そうとしました。
 そのあたりの様子が絵巻『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』に描かれ、記されていますので、第三巻・第一段の詞書を全文、現代語訳します。

 文永十一年(1274)の夏、高野山を過ぎて熊野へ参詣しなさる。山海千重の雲路をしのいで、岩田川の流れに衣の袖をすすぎ、数カ所の王子で礼拝をいたして、発心門の水際で心の閉ざしを開きなさる。藤代岩代の叢祠(そうし)には垂跡の露たまを磨き、本宮・新宮の社壇には和光の月鏡を掛けた。

 古柏老松の影をたたえた殷水(いんすい。?)の波は声を譲り、錦キ玉皇(きんきぎょっこう。? キのところは漢字がないようです)の飾りを添えた巫山の雲は色をうつす。とりわけ、発遣の釈迦は降魔の明王とともに東に出て、来迎の弥陀は導いた衆生をともなって西に現われなさった。

 ここに一人の僧がいた。聖が勧めておっしゃるには、「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と。
 僧が言うには、「いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます」と言って受けない。
 聖がおっしゃるには、「仏の教えを信じる心がないのですか。なぜお受けにならないのですか」
 僧が言うには、「経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです」と。

 そのときに、幾人かの道行く者たちが集まってきた。この僧がもし札を受けなければ、みなが受けないであろうという事態でありましたので、本意ではなかったが、「信心が起こらなくても受けなされ」と言って、僧に札をお渡しなさった。
 これを見て、幾人かの道行く者たちもみなことごとく札を受けました。その間に僧はどこかへ消えてしまった。
 このことを思惟するに、それはそれとして理にかなったことである。

 念仏札を拒否された。このことに一遍はとてもショックを受けました。こんなことは初めての体験でした。今までは誰もが素直に念仏札を受け取ってくれました。
 しかし、「信心が起こらないので、受け取れば、嘘になってしまう」という僧の言葉は、なるほど、もっともなことで、理にかなっています。
 今後、またこのようなことが起きたら、どうしたらよいのか。今まで自分が行ってきた布教の仕方は間違っていたのか。一遍は歩きながら、悩み、煩悶しました。
 さて、続きです。熊野本宮に着いた一遍は、

 念仏を勧める際の心がけについて冥慮を仰ごうとお思いになって、本宮証誠殿の御前で願意を祈請し、まだまどろまないうちに御殿の御戸を押し開いて、白髪の山伏が長頭巾をかけてお出になる。長床には山伏三百人ばかり頭を地につけて礼敬(らいぎょう)し申し上げている。

 このとき、「熊野権現であられることよ」とお思いになって、一心に拝んでいらしゃると、かの山伏は聖の御前にお歩み寄りなさっておっしゃるのには、
 「融通念仏を勧める僧よ。どうして悪い念仏の勧め方をされるのか。御坊の勧めによって、一切衆生ははじめて往生するわけではない。阿弥陀仏が十劫の昔に悟りを開かれたそのときに、一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されていることである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」と、お告げなさる。

 この後、目を開いてご覧になったところ、十二、三歳ほどの童子が百人ばかり来て、手をささげて、「その念仏をください」と言って、札を手にとって、「南無阿弥陀仏」と申してどこへともなく去ってしまった。

 およそ、融通念仏は、大原の良忍上人が夢定の中に阿弥陀仏の教勅をお受けになって、天治元年甲辰(きのえたつ)六月九日に初めて行いなさるときに、鞍馬寺毘沙門天王をはじめ梵天、帝釈天などが名帳に名を記しして結縁なさったという。この童子も、熊野の王子たちがお受けになったのではと思い合わせられる方もおります。
 「大権現の神託を授かった後、ますます他力本願の深意を了解した」と語りなさった。

 ここで、山伏姿で現われた熊野本宮の神は「一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されているのだ」と一遍に語ります。「だから、信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と。

 この考え方は天台本覚思想から発展したものです。天台宗のなかで発展した「本覚思想」は、「人は生まれながらにしてすでに悟っている」と考えました。
 天台本覚思想を浄土教のなかで発展させれば、「信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されている」という考えになります。

 浄土思想の中心経典「浄土三部経」のひとつ『無量寿経』に、阿弥陀仏がまだ修行中で法蔵菩薩とよばれていたときに立てた本願(「本願」とは、如来という結果になるための原因である菩薩のときに立てた誓願のこと。「以前の誓願」「もとの誓願」という意味をこめて、「本願」と訳されました)のことが記されています。

 『無量寿経』によると、法蔵菩薩は衆生を救うために四十八の本願を立てました。
 その四十八の本願のなかに他の菩薩の本願にはない「念仏往生の願」というものがありました。これは「阿弥陀仏を信じ念仏を唱えるすべての人々が救われ、極楽往生できないのならば、自分は仏にはならない」という誓いです。
 そして、いま、法蔵菩薩は仏と成り、阿弥陀如来となっています。ということは、菩薩の四十八の誓願はすべて果たされ、人々はすでに救われているのだということになります。だから、人はただ素直に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、それだけで往生できるのだ、ということなのです。

 しかし、一遍は「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と信心の押しつけをしようとしました。

 これに対し、熊野権現は「それは悪い念仏の勧め方だ。信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と諭します。

 信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されているのだから、あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。
 だから、念仏を人に勧めるときは、無理強いなどしてはいけない。相手が素直な心のままに阿弥陀仏を求め、素直な心のままに念仏を唱える、そういう自然な心の状態をつくりだしてあげなければならないのだ。
 そういうことなのでしょう。

念仏札 阿弥陀仏を本地とする熊野本宮の神の神勅を一遍が受けたこのときを、時宗教団では一遍成道(じょうどう。悟りを開くこと)の年とし、開宗の年としています。
 また、一遍がそれまでの智真(ちしん)という名を改めて一遍と名乗ったのもこのときからのことで、一遍自身、「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」とまで語っています。
 熊野権現の神勅を受けたときから、真の一遍の念仏布教の旅が始まったのでした。

 一遍は熊野を発ち、信不信を選ばず、貴賤男女を問わず、会う人ごとに念仏札を配って、念仏を勧めて諸国を巡りました。
 一遍について出家する者、また在俗にあって一遍に帰依する者も現われ、一遍の教えは徐々に徐々に一遍の歩みとともに広まっていきました。
 
薄念仏会 一遍は東北地方から九州まで全国を遊行しましたが、その途中、1279年、信州佐久でのこと。集まった人々と念仏を唱えていたところ、人々が念仏の喜びのあまり念仏を唱えながら踊りだしてしまったということがありました。これが時衆の「踊り念仏」を始まりです。
 このとき以降、一遍は、踊念仏と賦算(ふさん。念仏札を配ること)を2本柱として念仏布教を行うようになります。

 他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっていますが、一遍の踊り念仏は、リズミカルで激しい踊りに身をゆだねることで、その忘我のエクスタシーのうちに人間と阿弥陀仏の距離を一気に無化するというじつに密教的な念仏でした。
 この踊念仏が人々に受け入れられ、一遍時衆は、貴賤男女を問わず、日本中を熱狂の渦に巻き込みます。一遍は一躍、生き仏として崇められるカリスマ宗教家となりました。

 時衆は、浄土宗・浄土真宗をはるかに凌ぐ浄土教最大勢力となりましたが、一遍はなお自分の寺を持たず、諸国を遊行し続けました。最低限必要な物だけを持ち、歩き、念仏を唱え、踊り、念仏札を配る、遊行の日々。

 一遍が興願僧都という僧に念仏の本当のあり方とはどういうものかと尋ねられて書いた手紙があります。一遍の教えのエッセンスが詰め込まれたすばらしい手紙ですので、全文を現代語訳します。

 念仏を行する者が心がけなければならないこと示してくれということですね。承りました。
 じつは、南無阿弥陀仏と唱えることの他、心がけることはなく、この他にまた示すべき本当の有り様もないのです。
 諸々の智者たちが様々に立てた教えがありますけれども、みな諸々の迷いに対するかりそめの教えなのです。
 ですから、念仏を行する者はこのような教えを打ち捨てて、念仏するべきです。

 昔、空也上人がある人が念仏はどのように唱えるべきなのかと問うたところ、「捨ててこそ」とだけで、他には何ともおっしゃらなかった、と西行法師の『撰集抄(せんじゅうしょう)』に載せられています。これは本当に金言です。

 念仏を行する者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の判断をも捨て、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理をも捨て、地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸々の宗派の悟りをも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそ、阿弥陀がはるか過去に立てた本願にもっともかなうのです。

 このように声高に唱えれば、仏もなく我もなく、まして、念仏を声高に唱える中には理屈もありません。
 この現世が浄土なのです。外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのです。
 あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはありません。人だけが阿弥陀の本願に預かるのではないのです。

 また、このように愚老が申すことも心得にくければ、心得にくいままに愚老が申すことをも打ち捨て、ああだこうだと考えずに阿弥陀の本願に任せて念仏なさい。
 念仏は、信心して唱えても、信心しないで唱えても、阿弥陀の本願に違うことはありません。阿弥陀の本願に欠けたところはなく、余るところもありません。この他に何を心がけて唱えるべきでしょうか。
 ただ愚かな者の心に立ち帰って念仏なさい。南無阿弥陀仏

一遍

興願僧都

 一遍は、善悪の判断を捨てろ、といいます。
 信心をもっていようがいまいが、なんであろうが、あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されている。あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えれば、それだけでよいのだ。
 自分はかつて悪事を働いたことがあるだとか、善いことをしているだとかそのような考えをもつと、素直な心の働きが阻害されてしまう。善悪の判断を捨て、素直な心のままに念仏を唱えろということなのでしょう。
 これはたとえ悪人でも素直な心で念仏を唱えさえすれば往生できるのだということにつながるのでしょう。一遍の教えは武士階級にも広がりましたが、人殺しという悪事を職業とする武士でも極楽往生はできるのだという教えが彼らを捉えたのかもしれません。

 貴賤、身分の高い低いといった社会の道理を捨てろ、といいます。
 平安中期ころまでは念仏は僧が唱えるもので、それを聞くことのできるのも貴族階級に限られていました。それを在家の者でも唱えてよいのだとし、貴族だけでなく庶民にも広めていったのが、一遍が手紙に名を挙げた先人・空也上人(くうやしょうにん)であり、鎌倉新仏教の開祖たちであり、また一遍上人その人でした。

 女であるから往生できないとか、身分が低いから往生できないとか、そのようなことを考えてはいけない。
 素直な心のままに念仏を唱えればどんな人間であろうとも往生するのだから、その心の自然な働きを歪めるようなことは考えてはいけないのだというところでしょうか。
 実際、一遍時衆を支えたのは、武士であり、農民であり、女性であり、非人たちでした。社会の最下層に置かれたハンセン病者も信徒となりました。

 地獄を恐れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨てろ、と一遍はいいます。
 念仏を唱えるのは、極楽往生を願って阿弥陀仏にすがるためです。しかし、その心をも捨てろといいます。そのような願いや、あるいは地獄に対する恐怖心は、自然な心の働きを抑圧してしまう。
 善悪の判断、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理己、地獄を恐れる心を、極楽を願う心、とにかく心の自然な働きを歪めるあらゆるものをすべて取り除けということなのでしょう。

 声高に念仏を唱えれば、仏もなく我もないのだ、といいます。
 踊り念仏のところでも書きましたが、他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっています。念仏を唱える者と阿弥陀仏とは一体になることはありません。
 しかし、一遍は、念仏により唱える者と阿弥陀仏の距離を一気に無化することができると考えました。

 この現世が浄土であり、外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのだ、と一遍はいいます。
 現世を厭い、極楽浄土を求めるというのがこれまでの浄土教の考え方でしたが、一遍はそのような考え方を否定します。
 それは、ありとあらゆる現象や生きとし生けるものにひとつの力が貫いていることを一遍は直感していたからです。

 あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないということはない、と一遍はいいます。
 あらゆるものを貫くひとつの力。あらゆるものを生み出すとともに、あらゆるものに行きわたり染みわたっている、ひとつの力。すべてはそのひとつの力の場のなかに生じる一時的な現象である。その力を一遍は阿弥陀仏の慈悲としてとらえました。阿弥陀仏の慈悲はこの世界のどこまでも行きわたり染みわたっている。だから、人はただ素直なままに念仏を唱えればよいのだ、と。

 「遊行上人」ともいわれ、「捨聖(すてひじり)」ともいわれた一遍は生涯、歩き続けました。
 そして、16年の遊行ののち、一遍は1289年8月、兵庫和田崎の観音堂で51歳の生涯を閉じました。その直前、死に臨んで、一遍は「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてた」と言い、一遍は手元にある経典の一部を書写山の僧に託して奉納し、残りのすべての書籍を焼き捨ててしまいます。亡骸は「野に捨てて獣に施すべし」と言い残し、すべてを捨て切って、一遍は静かにこの世を去りました。

 生涯、自分の寺を持たなかった一遍ですが、一遍の死後、一遍の教えを受けた人たちが各地で寺を建て、教団を組織化していきました。この時衆教団は、開祖が成道し、阿弥陀仏の極楽浄土と見なされていた熊野本宮をとくべつ神聖視し、熊野信仰を庶民の間に広めていきました。

 浄土教の最大勢力となった時衆ですが、蓮如(1415〜1499)が復興した浄土真宗に吸収される形でその勢力を急速に失ってしまいます。また、熊野本宮じたいが江戸中期に神仏分離を果たし神道化してしまいました。
 それらのことにより、一遍成道の地である熊野本宮やその周辺にも時衆にちなむ文化財はあまり見られませんが、それでも熊野の所々に時衆の痕跡が残されています。

 湯の峰温泉には、熊野古道「赤木越え」(湯の峰と三越峠(みこしとうげ)を結ぶ。紀三井寺に向かう西国三十三所巡礼の道)の登り口のそばに一遍上人が爪書きしたと伝えられる磨崖名号碑(一遍上人名号碑)があります。道端に突き出た崖を磨いて刻んだ磨崖碑で、上部には阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表わす3つの梵字が刻まれ、中央には南無阿弥陀仏の六字名号。その両側にも、風化して判別がつきませんが、文字が刻まれた痕跡があります。過去の記録に求めてみると、『西国三十三所名所図絵』に、この名号碑のことが記されており、それによると、

    奉 法 楽
熊野三所権現十万本卒塔婆并百万遍念仏書写畢
   南 無 阿 弥 陀 仏
乃至法界衆成所願也正平廿年八月十五日勧進仏子敬白

 とあります。
 正平二十年(1365)とは、一遍が亡くなってから76年後のこと。したがってこの名号碑は、後世の時衆の念仏聖が爪書きしたもので、それをのちに一遍上人その人が爪書きしたのだと伝えるようになったのでしょう。
 一遍上人名号碑と伝わるものは、他に和歌山県新宮市熊野川町の万歳峠(ばんぜとうげ)付近に江戸期に補修された名号碑があり、熊野川町志古(しこ)の尾頭にも江戸期の磨崖名号碑があります。

 また、熊野古道「赤木越え」には鍋破(なべわり)と呼ばれる場所があり、鍋破地蔵という石仏が立てられていますが、その地名は一遍上人の伝説に由来します。

 湯の峰に爪書きの名号を残したのち、一遍上人は「赤木越え」を歩くことになった。弟子が先に赤木越えの峠で上人を待ちながらご飯を炊いていると、ご飯が炊きあがらないうちに鍋の水がなくなっているのに気づき、慌てて水を汲みに行って帰ってきたら、鍋が割れて米も黒焦げになっていた。そこに後から発った一遍上人が追いつき、これも如来が与えたもうた試練かと、何も食べずに再び歩き始めた。このことからこの辺りは鍋割と呼ばれるようになった。

 また、鍋割から「赤木越え」を三越峠へ向けてしばらく行くと、また一遍上人の伝説に由来する場所があります。そこの地名は献上(けんじょう)。そこにはかつて茶屋がありました。

 三越峠の手前1里程の処に一軒の茶屋があった。一遍上人たちが通り過ぎようとするのを、茶屋の主人が引き止め、「お代は要らないから」と、茶屋へ上げ、もてなした。
 上人が「この愚僧にこのようなもてなしをされてはもったいない」と言うと、「私共は修業のお坊様に献上するのを一番の楽しみとしています。それゆえに御仏の加護をいただき、このように家は繁昌、家内安全に送らせていただいているのです」との主人の言葉。上人は俗人に身をもって教えられていることを悟った。
 「お坊様はどこへ参られるのですか」と主人が尋ねると、上人は「我等は相模の国藤沢山浄光寺(現・時宗総本山の清浄光寺(しょうじょうこうじ)。遊行寺(ゆぎょうじ)とも。神奈川県藤沢市)の愚僧です」と名乗った。
 それで世の人は、名高い一遍上人に献上したということで、この家の家号と地名を「献上」と名づけ、その家はその後も長く続いているという。

 現在の熊野ではかすかにその痕跡を残す程度になってしまった時宗ですが、熊野本宮と時宗のつながりは現在でも続いており、代々の時宗の管長(最高責任者)は就任にあたり、熊野本宮に参詣奉告することが習わしとなっています。また、本宮大社旧社地大斎原(おおゆのはら)には、昭和46年に時宗寺院の手によって、南無阿弥陀仏と刻まれた一遍上人神勅名号碑が建てられました。

 大斎原にある一遍上人神勅名号碑

一遍上人ファンサイト

(てつ)

2002.12.25 UP
2003.2.21 更新
2003.7.12 更新

 ◆ 参考文献・参考サイト

栗田勇『捨ててこそ生きる―一遍遊行上人』NHK出版
栗田勇『一遍上人―旅の思索者』新潮文庫
大橋俊雄校注『一遍上人語録―付・播州法語集』岩波文庫
中沢新一『ゲーテの耳』河出文庫
くまの文庫2『熊野中辺路 伝説(上)』熊野中辺路刊行会
神坂次郎監修/楠本弘児写真『神秘の国 熊野』agasus
紀州語部の旅 本宮町

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■一遍上人は熊野権現の夢告を受けて宗教的な覚醒に到りましたが、熊野権現の夢告を受ける話は他に、

鳥羽上皇の熊野御幸
後白河上皇の熊野御幸
滝尻王子、藤原秀衡の子捨て
伏拝王子、和泉式部
平家物語3 成経・康頼・俊寛の配流
熊野にて開眼した盲人の話
夢に熊野権現の返歌を賜ること
垢離棹とあだ名された男の話

などにあります。

■時衆の念仏聖が成立に関与したと考えられる説経『小栗判官』はこちらからもどうぞ。↓

1 深泥ケ池の大蛇
2 照手姫
3 人喰い馬 鬼鹿毛
4 小栗の最期
5 水の女
6 餓鬼阿弥
7 小栗復活

■熊野の山中で一遍が行き会った僧は女性を連れていましたが、女性の熊野参詣については、

西行の熊野詣
伏拝王子、和泉式部

などに記述があります。

■浄土三部経
 浄土思想の中心経典で、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つを指す。

■空也上人
 903〜72。平安時代中期の僧。各地を巡り、初めて庶民に念仏を唱えることを勧めた。踊り念仏の元祖。井戸を掘ったり、遺骸の埋葬をしたりしながら、布教した。

■撰集抄
 中世の仏教説話集。西行の作として読み継がれてきたが、じつは後人の偽作。西行の体験談という体裁で書かれている。

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