み熊野ねっと 熊野の深みへ

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熊野とは?

かつての紀伊国牟婁郡が熊野

 本宮新宮那智熊野三山が鎮座する熊野(くまの)。
 熊野とは、かつての紀伊国牟婁(むろ)郡のことで、紀伊半島南部の地域をいいます。
 紀伊国牟婁郡というと、和歌山県というイメージがあるかもしれませんが、和歌山県のうちに納まるものではなく、三重県にも及んでいました。紀伊国牟婁郡は古くは熊野国としてあり、孝徳天皇(596~654)のときに紀伊国に牟婁郡として編入されたとの説もあり、面積的にはそれだけでひとつの県となってもおかしくないほどに広かったのです。

 紀伊国牟婁郡は明治になって、近畿最長の河川である熊野川を境に二つの県に分けられ、熊野川以西は現在の和歌山県に、熊野川以東は現在の三重県に属することになりました。
 ですから、熊野とはだいたい現在の和歌山県の東牟婁郡・西牟婁郡と三重県の南牟婁郡・北牟婁郡の辺りということになります。

熊野という地名の意味

 「熊野」という地名が何を意味していたのか、その語源ははっきりとはわかっていません。様々な説があります。

・「クマ」は古語で「カミ」を意味し、「神のいます所」の意とする説
・「クマ」は「こもる」の意で、「樹木が鬱蒼と隠りなす所」の意とする説
・「クマ」は「こもる」の意で、「神が隠る所」の意とする説
・「クマ」は「こもる」の意で、「死者の霊魂が隠る所」の意とする説
・「クマ」は「隅(くま=すみ)」の意で、都から見て「辺境の地」の意とする説
・「クマ」を「影」の意とする説
・「クマ」を「曲(くま)」の意とする説

 どの説を取るにしろ、熊野には開けた明るいイメージはありません。木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地というイメージ。

 実際、熊野三千六百峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の所が多い熊野は、人が農耕をして暮らすには不便な場所でした。
 その山がちの地形により人間の手による開発を免れていた熊野は、ほぼ全域をシイやカシなどの日の光を照り返す木々を主とした照葉樹林に覆われていました。
 大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界としてイメージされたに違いありません。

死者の国に近しい場所とイメージされた熊野

 熊野の地名が初めて登場する文献は『日本書紀』だと思いますが、『日本書紀』では、熊野はイザナミノミコトの葬られた土地として登場します。
 また、やはり『日本書紀』には、スクナヒコナノミコトが熊野の御崎から常世(とこよ。海底他界)に渡った、との記述もあり、熊野の名は記されていないものの、スサノオノミコトが紀伊国に渡り、熊成峰から根の国(地下他界)に入った、との記述もあります。
 スサノオの話に関しては、熊成峰ということで熊野とは述べられていませんが、紀伊国にあるというのだから、熊野三千六百峰の一峰であると捉えてもおかしくないと思います。

 大和地方の人々は熊野を死者の国(死後の世界)に近しい場所と考えていたようです。

浄土信仰の聖地に

 熊野には以前から死者の国としてのイメージが与えられていたので、のちに浄土信仰が盛んになったときに、熊野は、やはり死者の国である「浄土」と結びつけられたのでしょう。
 神仏習合や浄土信仰の隆盛により、本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、那智は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになりました。

 熊野が広くその名を知られるようになるのは、院政期、上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われるようになってからです。
 院政期、熊野御幸がほぼ年中行事と化すほど、上皇たちは熊野信仰に熱を入れました。このことにより熊野は日本第一の大霊験所として地位を確立したのです。

 武士の世となり、院政が衰え、熊野御幸は衰退していきましたが、熊野信仰は衰えませんでした。上皇たちは来なくなりましたが、今度は武士や庶民による熊野詣が盛んになります。
 室町時代以降、「蟻の熊野詣」と、蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様にたとえられるほどに、大勢の人々が列をなして熊野を詣でるようになったのです。

 この熊野信仰の隆盛には、一遍上人(1239~89)を開祖とする時衆(じしゅう。のちに時宗)という浄土教系の鎌倉新仏教の念仏聖たちの働きがありました。
 時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖地と考え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのです。

 このように浄土信仰との融合により日本第一の大霊験所として栄えた熊野は、やがて神仏の権威の衰退や浄土信仰の衰退とともに衰えていったのでした。

(てつ)

2003.1.4 UP
2019.8.5 更新

参考文献