■ 熊野の観光名所 |
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◆ 熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら) 和歌山県田辺市本宮町本宮 |
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本宮大社前のバス停からですと500mほど離れていますが、近年、旧社地近くに日本一の大鳥居(高さ33.9m、横42m)が建てられましたので、場所はすぐにわかると思います。歩いて5分ほどです。
熊野川と音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれるかつての本宮大社。熊野川は別名、尼連禅河といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。 江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。
現在の大斎原の森は水害後に植えられた杉が多くを占めていますが、人がそこを聖地として祭るようになった当初は、おそらくはこんもりとした照葉樹林の森であったことでしょう。 長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、『長寛勘文』に記載された『熊野権現垂迹縁起』(熊野縁起最古のものと考えられています)によると、 熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現である。 とあり、イチイガシという照葉樹林を代表する木に熊野三所権現が降臨したと語られます。 大斎原は、川に浮かぶ森、川面から突き出た森であり、地上のほとんどを原生林が覆っていた時代においても、その周囲を川に囲まれた特異な森の姿は人々に崇拝の念を抱かせたのではないでしょうか。 あるとき、大斎原を見ていて、私は、ふと「森の卵」というような言葉を思いつきました。 家都美御子大神は、古語で「食(衣食住の『食』)」のことを「ケ」ということから、「ケ=食」を司る神ではないかという説が一般的なようですが、私としては違うだろうと思います。大斎原を見て、そこから食物を想像することは私にはできません。 地上のほとんどが森に覆われていた縄文時代や弥生時代、森とは世界そのものであったのではないでしょうか。そうだとすると、「森の卵」は「世界の卵」といってもよいように思います。 いずれにしても、もともと熊野信仰は自然崇拝から生じたものなのでしょうから(那智は滝への崇拝から、新宮はその元宮が神倉神社であるとの説を受け入れれば、岩への崇拝から、本宮は川に浮かぶ森への崇拝から)、自然があまりに破壊され過ぎたときに社殿も破壊されるようになっていたのでしょう。今になって考えてみると、自然破壊に対する警報器のような役割を大斎原にあった本宮は果たしたのでした。 2年後の明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在、高台に遷座。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地に2基の石祠を建てて祀りました。東方(向かって右)の石祠に中四社・下四社を祀り、西方(向かって左)の石祠に元境内摂末社を祀っています。 大斎原に祀られている中四社・下四社については下記の通り。
元境内摂末社については次のようなものがありました。 ・八百万神社 今では熊野川は上流にダムができたため水量が減り、音無川もまた旧社地近くではほとんど水が流れていない有り様で、まったく昔の面影がありません。残念なことですが。 ちなみに地元の人に「大斎原」といってもわからない場合があります。地元の人は大斎原を旧社(きゅうしゃ)とか古宮(ふるみや)とかいいます。 4/13〜15に行われる本宮大社の例大祭では、大斎原が15日のお祭りのメイン会場となります。 なお、旧社地内および大鳥居は撮影禁止です。撮影には許可を得ることが必要です。
(てつ) 2002.3.31 更新 ◆ 参考文献
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