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湯の峰温泉(ゆのみねおんせん)

 和歌山県田辺市本宮町湯の峰 湯峯村:紀伊続風土記(現代語訳)

温泉番付では別格扱いの勧進元

湯の峰温泉

 本宮町にはいくつかの温泉がありますが、代表的な温泉は「湯の峰温泉」「川湯温泉」「渡瀬温泉」の3つです。
 その3つの温泉のなかで最も古い歴史をもつのが湯の峰温泉。

 湯の峰温泉は、本宮町でいちばん古いどころか、日本でいちばん古い温泉だといわれています。
 第十三代成務天皇の御代に熊野の国造(くにのみやつこ)大阿刀足尼(おおあとのすくね)によって発見されたと伝えられています。
 成務天皇は、在位期間は131年から190年までと考えられ、国造や県主を定めるなど、地方行政組織を整備したとされます。
 2世紀といえばまだ弥生時代。
 成務天皇の兄には日本武尊(やまとたけるのみこと)がいます。日本武尊というと、なんだか歴史上の人物というより神話上の人物という感じがしますが、ともかくも、湯の峰温泉は今から1800年以上もの昔に発見された日本最古の温泉なのだと伝えられています。

 江戸時代の温泉のランキング温泉番付では勧進元とされ別格扱いされるほどに効能のある温泉と知られていました。また、昭和32年に関西で初めて国民保養温泉に指定されたのもこの湯の峰温泉です。

湯の峰温泉公衆浴場

 四村川の支流・湯の谷川を挟んで旅館や民宿が並び、ほのかに硫黄の香りが漂います。こじんまりとした小さな温泉街です。

 温泉街の中心地にかかる湯元橋を渡った先に東光寺というお寺があり、その隣に湯の峰温泉公衆浴場があります。

 公衆浴場はくすり湯と一般湯があり、くすり湯は88℃という高温の源泉の湯を時間をかけて適温にまで自然に冷ましている湯で、一般湯は水で薄めて湯温を調整している湯です。
 くすり湯では、石鹸やシャンプーの使用は禁止となっています。源泉そのままの湯の成分をそのまま体に沁み入らせてください。

湯の花の化石の霊像が本尊

東光寺

 公衆浴場の隣にある東光寺後鳥羽上皇勅願所。仏教伝来以前の仁徳天皇の御代(313~399)にインドから熊野に漂着した裸形上人(らぎょうしょうにん)の開基とも伝えられています。現在は天台宗の寺ですが、室町時代ころには温泉とともに時衆の念仏聖の管理下にあったと思われます。
 本尊は薬師如来。その薬師像がとてもユニークなもので、なんと湯の花が化石となってできたものなのだそうです。
 薬師如来の形をした、高さ3mほどの湯の花の化石は、霊像として信仰され、また、胸のあたりから湯が湧き出ていたため、その像は「湯胸薬師(ゆのむねやくし)」と呼ばれました。「湯の峰」の地名はこの「湯の胸」に由来するそうです。

湯筒

湯筒

 湯元橋のたもとには白い湯煙を立ち上らせている源泉、湯筒(ゆづつ)があります。湯筒の湯温は92℃(!)。地元の人が野菜などを茹でたりするのに利用しています。
 また、近くの売店ではネット入りの卵やサツマイモなどが販売されていますので、観光客の人でも温泉卵などを作ることができます。卵なら10分、サツマイモなら30分ほどで茹であがります。

世界遺産の温泉、つぼ湯

つぼ湯

 湯筒の少し上流に小さな小屋が見えますが、その小屋のなかにつぼ湯があります。
 ふたり入ったらいっぱいの小さな、その名の通り、壺のような岩風呂です。
 日に七度、湯の色が変わるといわれ、小栗判官がこの湯に浸かり、蘇生したと伝えられる温泉です。
 カップルで入ると、子宝に恵まれるとか。
 連休のときなど混んでいるときは順番待ちになりますので、空いているときに来ることができたのなら、折角の機会ですので、ぜひともつぼ湯で入浴されることをお勧めします。
 つぼ湯は貸切入浴できるものとしては世界でただひとつ世界遺産に登録されている温泉です。

中世の日記に記された湯の峰温泉

 湯の峰の湯の素晴らしさは、熊野参詣を行った中世の貴族たちの日記にも記されています。
 平安時代末の貴族、藤原宗忠(むねただ)の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には天仁二年(1109)10月から11月にかけて熊野参詣の様子が記されていて、11月1日の日記に湯の峰温泉のことも記されています。
 藤原宗忠は、熊野三山巡拝ののち、本宮に戻ってきます。宗忠はしばし本宮で休息を取ったのち、大日越(だいにちごえ。本宮~湯の峰の山越えの道。徒歩1時間)をして湯の峰温泉に向かいました。
 湯の谷川の谷底で熱い湯と冷たい水が混じりあって、ちょうどよい湯加減になっているのを、宗忠は「誠に希有のことである。神験でなければ、どうしてこのようなことがあるだろうか」と日記に記しています。また、「この湯を浴する人、万病消除す」とも記しています。

 鎌倉時代初めの貴族、藤原頼資(よりすけ)は、やはり熊野三山巡拝ののち、湯の峰温泉に行き、「驪山(りざん)の温泉と同じだ」と感激を日記『頼資卿記』に記しています。
 驪山の温泉とは中国西安の驪山の麓にある温泉地、華清池(かせいち)のことで、唐の玄宗皇帝は、ここに「華清宮」を作り、毎冬、楊貴妃とともに訪れ、温泉と酒楽の日々を楽しんだといいます。
 頼資自身は驪山の温泉に行ったことはないでしょうが、それほどまでに湯の峰の温泉は素晴らしいということなのでしょう。
 藤原頼資(よりすけ)は、後鳥羽上皇や修明門院の熊野御幸に随行し、また個人的にもたびたび熊野参詣を行っている中流貴族です。残された記録からは22回の熊野参詣が確認されています。 

 院政期には、熊野三山を巡拝したのちに(本宮のみの参詣の場合は本宮を参拝ののちに)湯の峰温泉に行くことがしきたりであったようですが、室町時代になると本宮参拝前に湯の峰に行くようになったようです。
 足利義満の側室である北野殿が応永34年(1427)に熊野参詣をしたときの様子を先達(道案内人)が記した日記『熊野詣日記』には、「御師(おし。熊野三山の社僧)の宿房にお着きになり、お祝いののち、湯の峰にお登りになり、日が暮れてのち御師の宿房にお帰りになり、夜になってからご奉幣された」と記されています。

湯の峰の湯の聖性を伝えた小栗判官の物語

 あらゆる病いを治癒するとされた湯の峰の湯の聖性を全国の人々に知らしめたのが説教『小栗判官』です。室町時代に成立したと思われるこの物語は、おそらく、南北朝の動乱期から室町時代にかけて熊野信仰を全国に広めていった時衆の念仏聖の手により作られたものだと思われます。
 庶民に向けられて語られたその物語のなかで、小栗判官は殺され、土に埋められますが、閻魔大王の特別のはからいで、埋められてから三年ののちに、目も見えず、耳も聞こえず、物を言うこともできない、歩くこともできない、手足は糸のように細く、腹は鞠のように膨れた餓鬼のような姿で土中から復活します。そして、閻魔大王が浄土から熊野本宮・湯の峰につかわした薬の湯により元の小栗の姿に蘇生します。
 小栗判官の死と再生の物語により、熊野本宮の信仰は湯の峰の温泉と結びつけられ、熊野本宮の「癒しの地」としての聖なるイメージが全国の人々の心に浸透していきました。
 小栗判官の物語は、難病に苦しむ人々に希望を与えたことでしょう。熊野本宮に詣で、湯の峰の霊泉につかれば、治癒の奇跡が訪れることもあり得るのだと。
 湯の峰は本宮の湯垢離場として栄え、ライ病など難病の患者たちが治癒の奇跡を求めて熊野本宮に集まり、病いで傷ついた心身を湯の峰の霊湯で癒したのでした。

湯の峰王子

 東光寺の裏手を登った高台には熊野九十九王子のひとつ、湯の峰王子が祀られていますが、院政期には熊野三山巡拝ののちに湯の峰に訪れたので、湯の峰に王子は存在しなかったものと思われます。本宮参拝前に湯の峰の湯で湯垢離を行うようになってから王子が祀られるようになったのでしょう。
 湯の峰王子は、もとは東光寺の側に祀られてましたが、明治の火災で東光寺とともに焼失し、現在の場所に移されました。
 熊野本宮大社例大祭の初日(毎年4/13)の湯登神事では、湯の峰の温泉で湯垢離をとり、温泉粥を食したあと、湯の峰王子にて神事を行い、そののち、大日越えをし、本宮旧社地に向かいます。

史跡

 温泉街の道路傍には、湯の峰温泉を発見したとされる大阿刀尼の碑があり、また、時衆の開祖・一遍上人が岩に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を爪書きしたと伝えられる磨崖名号碑(伝一遍上人名号碑)があります。
 その他、湯の峰温泉の近くには、小栗判官ゆかりの、小栗が髪を結わいていた藁をほどいて捨てたところから毎年もみも蒔かないのに稲が生えてくるようになったといわれる蒔かずの稲、小栗が蘇生後、自分の力がどれだけ復活したかを試したという力石、餓鬼の姿の小栗が乗せられて引かれてきた土車を埋めたとされる車塚があります。

湯の峰生まれの禅宗の高僧、山本玄峰老師

 湯の峰生まれの昭和の傑僧、山本玄峰老師について動画で少しお話しました。4分ほどの動画です。ぜひご覧ください。

(てつ)

2002.6.27 UP
2019.8.15 更新
2021.8.9 更新

参考文献

湯の峰温泉へ