■ 熊野の歌

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◆ 梁塵秘抄、熊野を歌う今様


遊びをせんとや生(う)まれけむ
戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ

 この歌で知られる『梁塵秘抄』。
 『梁塵秘抄』は、
後白河上皇(1127〜1192)の撰による歌謡集。平安末期の遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ、広められた流行歌(「今様」と呼ばれた)の集大成です(1169年ころ成立)。後白河上皇は、少年時代から今様(いまよう)に夢中になり、女芸人に弟子入り、今様を伝授され、ついには自らが今様の第一人者になってしまいます。

 それにしても、後白河上皇の生涯はすさまじい。
 後白河上皇は
鳥羽上皇の第四皇子として生まれます。普通なら、第四皇子には皇位継承の可能性はほとんどないのですが、鳥羽上皇とその長男・崇徳上皇の不和から1155年、四男の後白河が当時29歳で即位。翌1156年には保元の乱。1158年、32歳で譲位。翌1159年には平治の乱。1167年には平清盛が太政大臣になり、1185年には平家滅亡。1192年3月、没。同年7月には源頼朝が征夷大将軍になるという…。
 譲位後、没年まで、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、武家勢力に対抗しつづけたしたたかな政治家。頼朝が「日本国第一の大天狗」と評した怪物。
 後白河上皇はその権謀術策により、平家を滅ぼし、木曽義仲を滅ぼし、義経を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼしました。頼朝が滅ぼされなかったのは、鎌倉という京から遠く離れた場所にいたためでしょう。平安から鎌倉時代に移行する激動の時代を後白河上皇はみごとなまでに乗り切ったのです。

 この後白河上皇、じつは大の熊野信者だったのです。歴代の上皇のなかで最も多い34回の熊野詣をしています。1160〜90年の32年間に34回。ほぼ1年に1回の驚異的なペースです。
 そんなわけで『梁塵秘抄』には熊野の歌や「熊野」の語を含む歌もいくつか採られていますので、それを紹介します。

 「巻二 四句神歌 神分」より、

神の 家の子 公達(きうだち)は
八幡の若宮 熊野の若王子(にやくわうじ) 子守御前(こもりおまへ)
日吉(ひえ)には山王 十禅師
賀茂には片岡 貴船の大明神

(242)

高名な神々の御子神を並べあげた歌。若王子は熊野権現の御子神。子守御前は熊野十二所権現のひとつ。

熊野へ参るには
紀路(きぢ)と伊勢路(いせぢ)のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず

(256)

熊野へ参るには
何か苦しき 修行者よ
安松 姫松 五葉松
千里(ちさと)の浜(以下欠字)

(257)

熊野へ参るのに何が苦しいか、修行者よ。苦しいどころか安いこと。安松、姫松、ともに熊野への道筋にある地名。千里の浜は和歌山県南部町の海岸。

熊野へ参らむと思へども
徒歩(かち)より参れば道遠し すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子

(258)

熊野の権現は
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子

(259)

花の都を振り捨てて
くれくれ参るはおぼろけか
且つは権現(ごんげん)御覧ぜよ
青蓮の眼(まなこ)をあざやかに

(260)

花の都を振り捨ててとぼとぼと参るのはおろそかな信心でしょうか。一方、熊野権現さまのほうでも、青蓮のような眼(仏の眼は青蓮に喩えられる)をはっきりと開いて私を御覧じてください。

 「権現」とは、権(かり)に現われたもの、すなわち、仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたものを意味します。もとの仏や菩薩を本地(ほんじ)といい、仮に神となって現われることを垂迹(すいじゃく)といいます。
 熊野本宮の主神「家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)」の本地仏は阿弥陀如来。
 新宮の主神「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)」の本地仏は薬師如来。
 那智の主神「熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)」の本地仏は千手観音。
 合わせて
熊野三所権現といいます。
 熊野本宮は阿弥陀の浄土だと考えられていました。

「巻二 四句神歌 僧歌」より、

聖の住所はどこどこぞ
箕面(みのう)よ 勝尾(かちう)よ 播磨なる書写の山
出雲の鰐淵や 日御崎
南は熊野の那智とかや

(297)

聖の住所はどこどこぞ
大峰 葛城 石の槌
箕面(みのう)よ 勝尾(かちう)よ 播磨なる書写の山
南は熊野の那智 新宮

(298)

 「巻二 四句神歌 神社歌」より、

熊野 二首

紀伊国や
牟婁の郡におはします
熊野両所は結ぶ速玉

(546)

紀の国の、牟婁の郡の本宮の証誠殿(しょうじょうでん。本宮の本殿)の向かって左、熊野両所権現と祭られている神の名は、結(むすび)の宮と速玉の神。結の宮は那智の主神、速玉の神は新宮の主神。

熊野に出でて
切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し
万(よろづ)の人のうはきなりけり

(547)


熊野詣の帰路、切目の山の梛の葉をたくさんの人が上被(うわき。笠飾り)にしていることだなあ。
切目は和歌山県印南(いなみ)町にある地名。九十九王子のひとつ、切目王子がある。

 切目王子は、熊野九十九王子のなかでも特に格式が高い五体王子のひとつとして崇敬されてきました。
 熊野詣の帰り道、切目王子にある神木の梛の木の葉を取って、笠の飾りにしたらしいです。その梛の葉は健康のまじないになり、郷里への土産にもしたということです。
 
平清盛(1118〜81)は、平治元年(1159)、子の重盛らを伴っての熊野詣の途中、切目王子まで来たところで源義朝らの挙兵を知り、ここから急きょ、京に引き返したと伝えられます。その折、清盛・重盛の父子は王子社の梛の枝を手折って、それぞれ左袖に付けて護符として、京に引き返しました。
 京では、義朝らが後白河上皇を幽閉、内裏を制圧して二条天皇を監視下に置き、ほぼクーデターを成功させていていましたが、清盛はみごと二条天皇を救出。義朝追討の宣旨を奉じて、義朝らを打ち倒しました。熊野権現の加護を受けた清盛・重盛の父子。この平治の乱の勝利により平家は圧倒的な地位を得るのです。

 「巻二 雑」には、熊野の歌かどうかはっきりしませんが、次のような歌もあります。

王子の御前(おまへ)の笹草(ささくさ)は
駒(こま)が食(は)めどもなほ茂し
主(ぬし)は来ねども 夜殿(よどの)には
床の間ぞなき 若ければ

(362)

王子の御前の笹草は馬が食ってもなお茂る。
亭主の来ないけれど、寝室は寝床のあく間がないほど、男の出入りが絶えない。
若いからね。

 王子とあるので、おそらくは熊野の若王子(にゃくおうじ)か九十九王子のうちのどこかを指すのでしょうが、Hっぽい歌も多い『梁塵秘抄』の中でも、最もHっぽい歌のひとつ。
 王子という言葉は、若々しい気分を盛り上げるのが狙い。
 笹草はイネ科の多年草。笹草の茂みは女身を暗示します。馬は男性的エネルギーの象徴。
 当時の結婚形態は男が女のもとに通う通い婚でしたので、夫の足が遠のけば、人妻でも他の男といくらでも関係が持てたみたいですね。

 さてさて、これらの他にも熊野の歌はあるかもしれませんが、私が見つけられたのはこれだけでした。もし他にもありましたらメールや掲示板でお教えください。

(てつ)

2000.5 更新
2003.6.28 更新

 ◆ 参考文献

新潮日本古典集成31『梁塵秘抄』新潮社
梅原猛『日本の原郷 熊野』とんぼの本 新潮社

■関連サイト
紅玉薔薇屋敷
 今様ラプソディ
というコーナーに『梁塵秘抄』の今様抄録と口伝集の現代語訳があります。

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