み熊野ねっと 熊野の深みへ

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熊野詣(くまのもうで)とは?

浄土往生の願い

 熊野詣(くまのもうで)とは、紀伊半島南部、熊野にある、本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の熊野三山を参詣することです。
 院政期の度重なる熊野御幸(くまのごこう)をきっかけとして熊野は日本国中の人々に知られるようになり、上下貴賤男女を問わず大勢の人々が訪れるようになりました。
 「蟻の熊野詣」と、蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様にたとえられるほどに、大勢の人々が列をなして熊野を詣でました。

 平安時代後期以降の浄土信仰の広がりのもと、本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音を本地(本体)とするとされ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。
 中世、人々は浄土に生まれ変わることを願って、熊野を詣でたのでした。

精進潔斎

 熊野は辺境の山岳地帯にあるので道案内が必要とされ、その道案内を修験者がつとめました。この道案内人を先達(せんだつ)と呼びましたが、先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行いました。
 熊野詣は出発に先立って行われる精進儀礼から始まります。熊野詣を志す者は精進屋に数日間籠って精進潔斎しなければなりませんでした。ネギやニラやニンニクなどの匂いのする野菜や肉や魚などを断ち、言葉や行いを慎んで身を清め、道中の加護を祈願した後に、人々は先達の指導のもと、熊野を目指して出発しました。

 精進潔斎の生活は道中でも当然、続けなければなりません。また、先達の指導のもとに、祓(はらえ)や、海辺や川辺での垢離(こり。冷水を浴びて身心を清めること)、王子社での奉幣などの儀礼も行われました。

 また、妄語や綺語、悪口、二枚舌など道理に背く言葉は厳禁で、忌詞を用いることにより妄語などを戒めました。
 熊野の忌詞は、30ほどあったようです。例をあげると、

 ●仏→サトリ ●経→アヤマキ ●寺→ハホウ ●堂→ハチス ●香炉→シホカマ

 ●怒り→ナタム ●打擲→ナヲス ●病→クモリ ●血→アセ ●啼く→カンスル

 ●死→カネニナル ●葬→ヲクル ●卒塔婆→ツノキ ●墓→コケムシ ●米→ハララ

 ●男→サヲ ●女→イタ ●尼→ヒツソキ or ソキ ●法師→ソキ

 など。

 熊野詣の道をゆく者はこのような言葉の言い換えを義務づけられました。そのため、道者は自分の口から出る言葉に注意を払わねばならず、自然、妄語も慎むようになったのでしょう。

熊野(=浄土)に入るには

 先達の指導と道案内のもと、人々は、出発の際に先達から与えられた杖をついて、一歩一歩、熊野へと歩みを進めていきます。
 熊野は浄土の地と見なされましたが、ただ歩いているだけでは浄土である熊野には入ることはできません。
 熊野は浄土の地であるので、熊野(=浄土)に入るには、いったん死ななければならないのです(儀礼的な意味で)。

 そのための場所が岩田川(今の富田川の中流域)でした。岩田川は、中世の熊野詣のメインルート中辺路(なかへち)を歩く道者が初めて出会う熊野の霊域から流れ出ている川です。
 初めて出会う熊野から流れる清らかな川は死の舞台にふさわしく、熊野詣の道中で最も神聖視されたこの川は三途の川に見立てられました。
 「三途の川を渡る」といいますが、熊野道者は岩田川を渡ることで儀礼的に死ぬことになるのです。

 その聖なる流れは強力な浄化力をもち、川を徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができるとされました。道者は浄められながら死ぬことができました。
 道者が初めて岩田川に出会う稲葉根(いなばね)王子から熊野の霊域の入り口である滝尻王子まで、道者は十何度と岩田川を徒歩で渡りました。何度も何度も岩田川を徒渉して、道者はその死と浄化の体験を深めていきました。

生きながらに死んで浄土に生まれ変わる

 儀礼的な意味で死んだ道者は、いよいよ熊野の霊域の入り口とされる滝尻に入ります。
 滝尻から先には9つの鳥居が建てられていました。9つの鳥居は九品(くほん。極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた9種類の往生の有様)の往生に対応したものです。
 極楽往生を願う人間はその生前の行いによって、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生の九品に分けられ、それぞれに応じた往生の有様があるとされます。

 熊野詣は浄土往生の予行演習であり、参詣者はその人の資質に応じ、下品下生の人は下品下生の鳥居をくぐることで浄土に入り、上品上生の人は上品上生の鳥居をくぐることで浄土に入ることができます。九品すべてに対応した鳥居があるので、道者はいずれかの鳥居で浄土に入ることができるという仕組みです。
 あるいは下品下生の鳥居から順に上品上生の鳥居までくぐるので、ひとつ鳥居をくぐるごとにひとつステップアップしていくということなのかもしれません。
 いずれにしても、9つの鳥居をくぐることで道者は浄土に生まれ変わることができました。

 熊野本宮まであと2時間半ほどという場所まで来て、今度は、本宮の聖域の入り口とされた「発心門」と呼ばれる大鳥居とをくぐります。これが9つめの上品上生の鳥居でしょうか。
 発心門をくぐり、発心門王子に着くと、道者はこれまで使ってきた杖を発心門王子に献納し、その代わりに新しい「金剛杖」が先達から渡されます。

 金剛杖は四角に削られていて、その四つの面は「発心門・修行門・菩提門・涅槃門」という4つの門を表わしているそうです。
 修験者は古くから葬送に関わってきましたが、修験者が行う葬送は、亡者が発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐることで成仏を果たすという考えにもとづいて行われる儀礼なのだそうです。

 発心門王子で、今まで使っていた杖を献納し、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門が表わされた金剛杖を渡されたのは、これから道者が発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐり、成仏を遂げるのだということを現わしているのでしょう。

濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂

 新しい金剛杖をついて、道者は本宮へと足を進めます。
 本宮は現在は高台にありますが、もともとは熊野川音無川・岩田川(上述の岩田川とはちがう別の川)の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していました。現在地に遷座したのは古いことではなく、明治24年(1891)のことです。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座しました。

 中洲にある本宮へ入るには、音無川を徒歩で渡らなければなりません。
 江戸時代まで音無川には橋が架けられず、道者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。
 これを「濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂」といい、道者は音無川の流れに足を踏み入れ、わらじを濡らし、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
 精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。
 道者は音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。

再び現世に再生

 本宮を詣でたあとは熊野川を船で下り、熊野川河口にある新宮に詣で、新宮からは再び徒歩で海岸線沿いを辿り、それから那智川に沿って那智に登っていきました。
 那智からの帰途は、再び新宮を経、熊野川を遡行する本宮に戻り、再び中辺路を通って都に帰っていきます。来た道を逆にたどるのが復路の原則でした。これは往路の「浄土に生まれ変わり成仏した」というそのプロセスをそのまま逆にたどって、再び現世に再生するためだと思われます。道者は金剛杖をついて、自分の国に帰っていきました。

 岩田川を渡ることで死に、九品の鳥居をくぐることで浄土に生まれ変わり、発心門をくぐり、発心門王子で金剛杖をいただいて本宮を詣でることで成仏する。
 このように中世の熊野詣は、生きながらに、死んで浄土に生まれ変わって成仏し、そして、再び現世に帰っていくという構造を持っていました。

 ですから、熊野三山の社殿に参詣することはもちろん大切なことなのですが、それ以上に熊野に到るまでの精進潔斎して歩く道中の日々が大切なのです。

そして何度も何度も熊野詣を繰り返す

 生きながらに、死んで浄土に生まれ変わって成仏し、そして、再び現世に帰っていくというのが熊野詣。現世に帰ったらまた熊野をも詣でる。何度も何度も熊野詣を繰り返す。

 20回以上、30回位以上熊野詣を行った上皇もいますが、熊野詣は浄土往生の予行演習であり、何度も何度も予行演習を重ねることで、本番の際の浄土往生を確実なものにしようと願ったのです。

(てつ)

2003.1.27 UP
2003.6.17 更新
2019.8.5 更新

参考文献