■ 熊野の説話 |
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◆ 弁慶物語4 喧嘩修行 |
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さて。 さても、弁慶は、もともと立てた喧嘩修行であるのでと、熊野参りをほおっておいて、北陸道にさしかかり、越前の国、平泉寺(福井県勝山市。天台宗)に着いた。 さて、寺院内を走り回って見るけれども、相手になるべき者もいない。ここに本堂よりも北東に当たる所に坊がある。立ち寄って見ると、稚児や多数の衆徒が並び坐って、酒盛りの最中と見えた。庭では稚児や多数の衆徒が蹴鞠の最中と見えた。 弁慶は、何を喧嘩のきっかけにしようと思って、差し出がましい様子を表に出し、酒宴の席に臨んで、人も問わないのに、「ここにある具足のおかしさよ。あそこにある打物のカネのなまくらであることよ。差している刀はうわべだけであるのだろう。あそこにいる馬の足元の悪さよ。乗っても少しも動かないだろう」などと言うけれども、酒盛りのなかでのことなので、聞かないで咎めないのだろうか、または愚か者と見て、咎めないのだろうか、何とも人は言わないので、言えば、しらけて、蹴鞠の懸かりに寄りかかって立ち、「もしもし、人々の足に当てて蹴り上げる物は何という物か」と言う。 「鞠と申す物よ」と言う。武蔵は聞いて、「なるほど、鞠と申す物は御坊たちのお頭に似ています」と言ったので、鞠を蹴る法師どもは気色ばんで、「ふざけた法師の言葉だなあ」と咎めた。 多数の衆徒たちは腹を立て、太刀、長刀の鞘を外し、顔色を変えて見えた。武蔵はこれを見て、「ああ、かわいらしい御坊たちの勢いだなあ。ここは戦には狭いと思われる。こちらへお入りください。と言って、大門を目指して走り出て、講堂の大庭へ躍り出て、「喧嘩しよう。嬉しいなあ」と衆徒たちを招いて待った。 多数の衆徒たちのその中に比叡山延暦寺の僧兵がいたが、弁慶を見知って、「もしもし、方々は戦いまくって死になさるのか。これこそ、有名な西塔の弁慶よ。十万騎あってもかなうまい。ただ意志を押さえて止まりなさい」と言ったので、我れ先に進んでいた衆徒たちが他に負けまいと逃げていくのはおかしく見えた。 「ああ、不快だ。仏に申し上げた喧嘩修行の願いを実行できないことは口惜しいなあ」と独り言して、立ち聞きをしていた。 弁慶は、囁く声を頼りに大きな石があったのを手に取って、「えいやっ」と投げた。二人の老僧を一度に完全に打ち潰す。一人は六十三、いま一人は五十七、無用の内談を始めて、石に押しつぶされて死んでしまったと、その激しさは、ものに譬える方法がないほどであった。 そうこうしている間に、弁慶は諸寺諸山を馳せ巡り、「北陸道において、私の手並みに耐える者はいない。不快なところ」と言って、それより引き返し、足にまかせて行くと、播磨(今の兵庫県西南部)の国で有名な書写寺(書写山円教寺。姫路市)に着いた。 何を思ったのだろうか、武蔵は講堂に参り、三十三度の礼拝を申し上げ、私は仏法に縁があればこそ、きっと法師の身にもなったのだろう。 このような折に、法師が二人連れ立って参ってきて、「ふざけた者のふるまいだなあ」「ただ鬼神に似ているのか。心にものを思うのか、仏法に思いを入れた様子だなあ」「ただ大悪を犯す者は悔い改めれば善行をなす。これが噂に聞こえた西塔の弁慶という者だろうか。さあ、からかってみよう」「いかにも」と言いながら、弁慶に酒を勧めた。もとより酒には強い。思いのままに飲み、酔い、講堂の後ろで前後も知らず横になった。 ここに若い僧侶、僧兵二、三人が寄り合って、筆に墨を染めて、弁慶が左右の頬の先に歌を書く。まず、左の頬先に書いた。
また、右の頬先に、
このように書き付け、「おつおつ」と笑い、四方へぱっと散ってしまった。弁慶はこれを知らずに、笑う声に目を覚まして、また、仏の御前で念誦していた。講堂へ参り、会う人ごとに、武蔵を囁き笑った。 あまりに不思議に思ったので、蓮池があったので、水面に顔を写して見てみた。ほんとうに人が笑うのももっともなことである。どのような愚か者が来て、武蔵の寝入ったところを見て、このようにしたのであろうか。不思議だなあ。水で洗い落としたい思うが、いやはや、思い出した。 さっそく仕返ししようと思って、その頃、長吏(ちょうり。寺院の長老で、一山の寺努を管理した僧侶)は、片目が見えなくなって声は小さかった。それやこれやを口実にして、歌に詠むほどならば、、腹を立てて、寺中の僧を呼び集めて、僧侶たちの内部の問題として扱うべきである。
このように詠じて、かたわらに隠れて立つ。案の定、長吏が見つけて、大いに腹を立てて、すぐに大鐘をつかせ、法螺貝を吹く。寺中の僧が、これを聞くやいなや、武具で身を固め、講堂の庭に並んで坐った。 一寺の衆徒はこれを聞いて、「長吏の御恥は一山の恥辱である。ともに捜そう」と申し上げるところに、ある方から申し上げたことには、「まさしく長吏を崇め申し上げる衆徒がどうしてそのようなことをなさるだろうか。諸国七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道のこと。転じてすべての国々)の回国行脚の修行者どもが集まるので、そのような者がしたのだろうか。まず、それらの者どもを召し捕って、糾問(厳しく問いただすこと)に当てて御覧じようか」と申し上げたので、「それが適当であるだろう」と言って、旅の僧どもを召し捕り、いよいよ厳しく問いただすところであったが、 件の弁慶は黒糸威の腹巻に左右の小手を差し、五尺余りの太刀をを佩き、三尺三寸の大刀、九寸五分の鎧通しを右手の脇に差し、長刀を杖に突き、大声を上げて申し上げたことには、 一山の衆徒はお聞きになり、「これはもっともなことである。人の咎を戒めるのならば、まず我が身を正しなさいと申すことがあるので、もっともなことである。それにしても、長吏のお憤りをどうしよう」と話し合われた。 ここで、長吏の弟子で信濃の注記といった者は寺一山の不届き者、木蘭地(むくらんじ。黄色を帯びた赤色、あるいは焦げ茶)の直垂に萌黄匂い(もよぎにおい or もえぎにおい。薄緑色の匂い威。「匂い威」は鎧の威の色を濃い色から次第に薄い色にして末を白くしたもの)の腹巻に、同じ毛の五枚兜(錏(しころ)の板が五枚ある兜)の紐を締め、三尺八寸の厳めしく見えるように外装を施した太刀を佩き、白柄の長刀を杖に突き、大勢の衆徒の中から進み出て申し上げることには、「そのような恥辱があるならば、一山へどのようにも嘆きを申し上げるべきなのに、押さえて長吏の御事を悪く申し上げるのはけしからぬことである。その他、恐れ多くも、大勢の衆徒の御前で、大床に上がり、下駄も脱がないで高言(自信たっぷりに威張って言うこと)をなすのは失礼である。脱いで引き下がれ」と言ったので、 弁慶は騒ぐ様子もなく、「何だって、信濃殿、下駄を脱げとおっしゃるのか。この寺にこの法師を敬う人もいない。何を恐れて脱ごうか。ただし、道徳を思うときは脱ぐことではあるけれども、この法師の顔に書いた下駄を御坊の顔のど真ん中でどうして履かないで済まされようか」と言ったので、信濃の君はこれを聞き、「口のききかたが荒々しい御坊に木轡(きぐつわ。木でできた轡)をはめよう」と言いながら、白柄の長刀をうち振ってかかった。 弁慶はこれを見て、「ああ、かわいらしい、信濃殿。持ったならば、振ろうと心得て、振る長刀のおかしさよ。奪って恥辱を与えよう」と、走りかかって、奪い取り、講堂の屋根へ投げてしまった。 信濃はなおも腹を立て、辺りの坊へ走り入って、火の中にくべていた薪を肩に乗せ、弁慶にかかっていくと、武蔵坊はきっと見て、「暗くもないのに、火を灯すのか。手をあぶるためか。火遊びはなさるな」と、侮って笑って、走り寄り、持っていた薪を奪い取り、これも屋根に上げてしまった。信濃の君を左手の脇に挟みこんで、ひとしめ締めて、悲鳴を上げさせた。 また、信濃の仲間に丹後坊といった者がいたが、信濃に劣らぬ不届き者、飾磨(しかま。今の兵庫県姫路市南部)の褐(かちん。濃い紺色、または褐色の染料で染めた布)の直垂に、節縄目(ふしなわめ。鎧の威の一種。白、薄藍、紺の三色の縄を並べたような波状の模様に染めた革で威したもの)の鎧を着、三枚兜(錏の板が三枚ある兜)の紐を締め、、四尺余りの大太刀をするりと抜き、額の真ん中、頭上にかかげて、叫んで武蔵にかかっていった。斬ろうとすると、武蔵坊は脇に挟んでいる信濃坊を取り出し、太刀をさえぎろうとするので、斬りかねているように見えた。 丹後坊の太刀遣いよりも、弁慶は信濃坊を軽く振り回した。信濃はこの様子を見るやいなや、「おい、丹後殿、私を斬るな」と言ったので、丹後は太刀を投げ捨て、むんずと組もうとするところを、右腕を差し出し、鎧の上帯、胴の板につかみあわせて、中にすうっと差し上げ、ひとふり振って、右の脇に挟んで二人の頭をばはつしと鉦(かね)を打ち鳴らすように打ちあわせ、「南無阿弥陀仏」と申し上げては、踊念仏し申し上げた。 大勢の衆徒がこの様子をきっと見て、「もはや、堪えられないところだ」と言って、弁慶を真ん中に取り込めて、「取り逃がすな」と大声で叫んで体を揉みあった。弁慶の様子をよくよく物に譬えると、籠の中の鳥、網代の鮎の稚魚のようで、取り逃がすようなことはなかった。しかしながら、弁慶は弾に慣れた鳥の風情、騒ぐ様子はなかった。 脇に挟んだ二人の法師に言ったことには、「私を恨めしいと思うなよ。衆徒の好んだ道であるので、冥土の旅に赴(おもむ)け」と、頭と頭を打ち合わせ、微塵に二人の頭を打ちつぶし、前にある池に投げ入れ、「南無三宝」と言いながら、長刀の鞘を外し、西から東に一文字、北から南に十文字、蜘蛛手(くもで。四方八方に振り回すこと)、香泡(かくなわ。縦横振り回し交錯させること)、八花形(やつはながた。円の周囲に花弁が八つ付いている花の形)というようにバラバラに分断して斬ったので、手並みに耐える者はなかった。 戦の途中のことであるが、投げ上げた燃えさしが御堂の屋根に燃え付いて、焼き上がる。ちょうど風が吹いたので、堂塔僧坊残りなく吹き付け吹き付け焼けたので、防ぎ戦う衆徒どもは、仏像、経巻を取り出そうと、おのおの御堂へ走って入る。 弁慶が思うことには、書写山に長居するのは理由のないことと、都を目指して上った。 書写の寺印や仏像を造立したいものだと思って、まず内裏に走って入り、「播磨の書写山、炎上した。国か郡かで寄進して、ご建立するべきだ。そのことを行わなければ、内裏も危うい。私は書写の伽藍(がらん。寺院の建築物)の勧進聖である」と言って、内裏を走り出て、また、六波羅に入って、「今日の午の刻に播磨の書写山が炎上した。領地や田畑を寄進して造立ください。御一家一門いよいよ繁昌するだろう。私は書写の伽藍の勧進聖である」と言って、いなくなってしまった。小松殿(平重盛)の所へも参上してこのことを申し上げて、いなくなった。 「これは不思議なことだなあ。今日の午の刻のことを言うことができるのか。ともかく早馬を立てて見せろ」と命令があったので、急ぎ早馬を立てて見せたところ、本当にその日の午の刻に播磨の書写山が炎上している。そのことを朝廷に申し上げたところ、「本尊のお計らいでなければこのような霊験はよもやあるまい」と、浄海(平清盛。出家して浄海と名のった)を始め、国々の諸侍が、数々の宝を積んだので、まもなく書写の寺院は再建なった。弁慶が思うことには、このように建てるのも弁慶、また、焼くのも弁慶、なるほど、善悪不二とはこういうことかと今こそ思い知られたと、巧みに言い回していた。 今回はここまで。 (てつ) 2003.6.8 UP ◆ 参考文献
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