■ 熊野の説話 |
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◆ 弁慶物語2 比叡山 |
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さて。 七歳となった春の頃より、比叡山(延暦寺。最澄開基の天台宗の総本山。国歌鎮護、王城鬼門の守護の中心地)西塔(比叡山山上は、根本中堂を中心とした東塔(とうどう)・釈迦堂を中心とした西塔(さいとう)・円仁によって開かれた横川(よかわ)の3地区に分かれる)の伯耆(ほうき。現在の鳥取県西部。僧号として用いられている)の竪者(りっしゃ。延暦寺における法会の遂行に当たる学問のある僧)慶俊(けいしゅん)という者がいて、この僧の許に上らせたところ、書くことも読むことも通じていないことはなく、詩歌管弦、酒宴で即興的に演じられる歌舞にも通じていましたが、ただし取扱いに苦慮することがありました。 1日中、学問をし、夕暮れにもなると、庭の白洲(しらす。白い砂や小石を敷き詰めたところ)に躍り出て、直垂(ひたたれ。平安時代からの庶民の表着。中世では武士の平服ともなった)の袖を結んで肩の後ろの方にまくりあげ、袴のそばを取り(そばは稜。袴の左右、腰の部分に開いた縫い止めの部分。動作を自由にするために、稜を上げて帯に挟みこんで)、飛び越え跳ね越え、早業、力持ち、弓矢はいつもの遊びである。木長刀(きなぎなた)、木太刀を作り、誰が敵であるということはないけれど、取りかかっては武芸の道をたしなみ、あの稚児この稚児に近づいて喧嘩ばかりを好んだ。 心では祟ることは知りながら、人の心を見るために、荒々しく乱暴な態度で、他の僧の稚児(寺院内で雑事に携わり僧の世話をした少年。男色の対象となった)や御童子(寺院にいて、剃髪得度せず、雑用に使われた少年。そのまま成人になる者も多かった)、修学者(教理を学び修める僧侶)たち、老僧下僧にいたるまで、頭を張ってまわったので、若一殿の手にかかって怪我しない者はなかった。それでもやはり、ただ1度のことであるならば、五条の大納言、伯耆の竪者にも免じて許した。 あるとき、全山の衆徒が一同して慶俊に訴訟することには、 慶俊は「いかにも御道理であることよ」と言って、若一殿に向かっておっしゃることには、「現世来世までも頼りにし申し上げたいものだと思っていたが、あまりに不謹慎でいらっしゃるので、全山の訴訟となり、どうしようもない。しばらくは片田舎にいらして、世の有り様をもご覧になっておられよ」とおっしゃったので、 若一殿はお聞きになり、すぐさま山を出ようとなさったが、心のなかで思うことには、遠国からでさえ当山に上り、剃髪しているのだよ。ましてや我はこの山で年月を送っているのに、どうして童形のまま山を出ることができようかと思ったが、法師になりたくは思うけれども、あまりに人に憎まれていますので、髪を剃らせることができる人がいなかった。 つくづくとものを思っていると、天下に恐ろしい人が3人いる。捨てられたといえども、親でいらっしゃるので熊野の別当、また、養育してくださります五条の大納言、また、この世での多大な御恩であるので伯耆の竪者も恐ろしいのです。 いっそのこと、戒律を保とうとして、戒壇堂(戒律を授け、受戒するための場を設けた堂)を目指して登った。番衆(番をする人)の法師はこれを見て、「あっ、さては、件の若一が当山を追い払われるのに、法師になって来ているぞ。彼に近づかれ、拳で殴られたならば何ができるだろうか。さあ、わきに逃げよう」と言って、戸を音を立ててきちんと閉めて、逃げた。 「若一は法師になり、受戒せんがために来たのだ。開けよ」と言っても、音もしない。 仏の御前で名を付けたいものだと思い、「我はもとより天皇の血筋に当たるその子孫であるので、氏も二つとないものであるぞ。公卿房と名乗ろうか。殿上房と名乗ろうか。それもあまりに大袈裟だ。西塔(さいとう)の武蔵坊と名乗ろう。名乗りを何と名づけようか。思い出したことがある。父は熊野の別当弁心とお名乗りになる。その弁の字を取ろう。さて、師匠は伯耆の竪者慶俊と申し上げなさるので、その慶の字を取って名乗ろう」と言って、武蔵坊弁慶と名乗った。 『義経記』巻第三「弁慶山門を出る事」には、 昔、この山に悪を好む者がいた。西塔の武蔵坊と申した。21歳で悪をし始めて61歳で死んだが、旦座合掌して往生を遂げたと聞く。我らも名を継いで呼ばれたならば、剛になることもあるだろう。西塔の武蔵坊ということにしよう。 とあり、「西塔の武蔵坊」という名が、むかし比叡山にいた悪僧にちなんだものであると語られています。 「いっそのこと、仏の御前で戒律を保とう。殺生、偸盗(ちゅうとう。盗むこと)、邪淫、妄語、飲酒、この五戒を保つことができるか否か」と言って、自ら答えて言うには、 偸盗戒と申すのは物を盗まぬ戒であるようだ。前世、欲深の業により、今生の果報は定まってしまうといいながら、それでもやはり暮らしにはかなわない。過去の罪に懺悔して仏神に祈ろう。栄啓期(えいけいき。古代中国の人物)が三楽(3つの楽しみ)には貧をもって第一としたと見えているので、偸盗戒は保つ。 妄語戒と申すは、嘘を言わぬ戒であるようだ。人を害するほどのときは、嘘を言わずにはかなわないこともきっとあるだろう。また、時として人を助けようとするときにも、嘘を言うのも世の常である。仏の仰せも納得がいかないので、妄語戒もきっと保たないだろう。 と言って、問いつ答えつ独り言して、恭敬礼拝が済み、戒壇を出て、十町(1町は約109m)ほど行ったところ、讃岐(現在の香川県。僧号として用いられている)の注記(法会の際の論議のときに題を読み上げたり、論議の内容を記録する僧)俊海と申して、60余りの老僧であったが、長絹(ちょうけん。上質の絹布)の衣に精好(せいごう。縦を練り糸、横を生糸でで、あるいは縦横ともに練り糸で織り上げた、地が細かで美しい織物)の袈裟をかけ、長刀(なぎなた)を杖につき、ある方へ行ったのを、武蔵坊は行き向かって、身なりを整えてかしこまって申し上げることには、 「私は、あなたも前々から私の評判はお聞きになっているであろうと思うが、当山で評判になっている愚か者で若一と申した者であるが、今は出家して西塔の武蔵坊弁慶と申しますが、親にも師にも憎まれて、衣をまったく得ることができない。不足して不自由を感じています。さしつかえなければ、御坊の御衣をお与えくださいませ」と申し上げる。 俊海は、「思いも寄らぬこと」と言う。 弁慶は、腰をかがめ、膝を押し曲げ、身なりを整えてかしこまっているのが、下駄を履いている俊海と同じ高さにあったが、腹を立てて伸び上がったところ、下駄を履いている俊海より3尺(1尺は約30cm)ほど高かった。 各種の経典に見られる釈迦の前世譚。 それほどのことはないにしても、御坊ほどの大名のような物持ちが、衣のひとつにそれほどまでの損失は決してあるまい。当山第一の悪稚児が法体(ほったい。出家した者)の身となって、仏法修行をたしなむならば、進んで衣のひとつでも与えるべきなのに、あれやこれや申すのはけしからぬことである。御坊の衣より他に衣がないというのではない。くれなくとも、百重もあるはずであるけれども、惜しむところが憎いので、慳貪であるのを懲らしめるために、さあ、御坊の衣を剥いで着よう」と思い、「御坊は衣が惜しいのか、命が惜しいのか」と言うやいなや、長刀を奪い取り、踊りかかって打とうとする。 かなわないと思ったのだろうか、「しばらくお待ちくださいませ。脱いで差し上げましょう」と言って、震えわななき衣を脱ぐ。 俊海は、「この歳で、どうしてそのような色めかしい物を着ることができましょう」とおっしゃると、「あれやこれやとおっしゃって、お召しにならないのは、御坊の衣装を剥いだとお腹立ちからか。そうでなければ、着なされ」と責めたので、俊海はここで着ないものならば、武蔵坊の様子から何か事をしでかすであろうとお思いになり、心ならずも震え震えて着て、あまりの恥ずかしさに、傍らの道を行こうとすると、わざともと来た道に追い出し、「それほどの御老僧に御同宿(仲間の僧)がないのは、見苦しい御事であることだ。御供として参ろう」と言って、六十歳ほどの老僧を先に立て、後から武蔵坊は長刀を抜き、俊海の頭の上をあちらこちらへひらめかせたので、気力も体から離れてしまう。人々はこれを見て、「俊海の御坊がふたたび稚児になった」と、足や手を叩き笑われてようやくのことで住んでいる坊へ帰った。 弁慶が申し上げるには、「衣をお与えになったお志は何より嬉しく存じる。どのようにあっても御坊は見知ったことである。衣を損しましたならば、遠慮しないで、いつでも参って衣を差し上げよう。そのとき、あれやこれやおっしゃって、弁慶をお恨みなさるな」と言って、都の方へ走った。 今回はここまで。 (てつ) 2003.5.31 UP ◆ 参考文献
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