■ 熊野の説話 |
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◆ 熊野の本地1 熊野十二所権現 |
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『神道集』という説話集があります。中世、1352〜60年ころ、南北朝の後光厳天皇のころに成立したと考えられるこの書物。各地の有名な神社の神々の前世を解説しています。 神の前世というと現代の私達にはピンと来ませんが、本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が浸透した平安後期以降、神の前世は仏であると考えられていました。 この本地垂迹思想、中世に入って少し変化を見せます。仏が神となって現われるということはもちろん変わりませんが、仏が神として現われるまでの過程で一度、人間として生まれてくるということが入ってきます。一度、人間として生まれ、人間としての苦しみを経験した上で神となる。人として苦しんだ体験があるから人々を救うことができるのだという考えによるのでしょうか。 仏が一度、人間として生まれ、人間としての苦しみを経験した上で神となる。このような神々の物語が中世、宗教芸能者によって一般の人々に語られ、広められていきました。それらの物語を書物にまとめたものが『神道集』です。 本地垂迹思想が浸透した平安後期には、阿弥陀如来の浄土と考えられるようになっていた熊野本宮。平安の院政期の上皇の熊野御幸を機に高まりを見せた熊野信仰は、鎌倉、室町と時代が進むとともに、武士や庶民にまで広まっていきます。「蟻の熊野詣」と蟻の行列にたとえられるほどに多くの人々が熊野を詣でるようになり、さらに全国各地に熊野神社が勧請されていきます。 この中世の熊野信仰の拡大に一役買ったのが、熊野比丘尼(くまのびくに)と呼ばれた女性芸能者たちです。彼女たちは熊野信仰を広めながら各地を勧進して歩きました。彼女たちは熊野の喧伝のために物語を語りました。その物語の一つが「熊野の本地」。熊野の神々の前世譚です。熊野比丘尼によって語られたこの物語も『神道集』にはおさめられています。 巻二の六、「熊野権現の事」。 そもそも熊野権現と申すのは、役の行者・婆羅門僧正が真の本地そのままを信仰されたのである。 その後、仏法はいまだ本朝へ渡らず、仏法が渡ってきてからも上代においては熊野権現の存在はまだ幽かな状態のままであった。年月が300余年を経てのち、40数代目の天皇のころに、役の行者・婆羅門僧正らが参詣してのち、その御本地を顕わしなさったのである。 このようなわけで、熊野十二所権現のうち、まず三所権現と申すのは、 以下、次々と神の名をあげ、その本地仏を並べあげているので、表で示します。
三所権現・五所王子・四所明神、あわせて熊野十二所権現。三所権現のうち、証誠権現が本宮、中の御前が新宮速玉、西の御前が那智の神様です。本宮・新宮・那智がそれぞれに共通に三所権現を祀っています。
これだけの神とその本地仏の名をあげています(熊野十二所権現については資料によってわずかに異同があります)。 そもそも、熊野権現が顕われなさった神武天皇壬寅の年より今年延文(北朝の後光厳天皇の年号)3年戊戌(つちのえいぬ)に至るまで1981年である。 金峰山(きんぷせん)の象王(ざおう)権現は38所である。本地は未来の導師・弥勒菩薩である。勝手の宮は不動尊、子守の宮は毘沙門天である(これは吉野の蔵王権現の説明。吉野と熊野は大峰で結ばれる)。 今現在のことでいえば、熊野神社は、北は北海道から南は沖縄まで全国に3000社以上あります。みなさんのご近所にもおそらくあるのではないでしょうか。 このお話、まだまだ続きますが、今回はここまで。次回から、いよいよ熊野権現の前世譚が語られます。 (てつ) ◆ 参考文献
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