■ 熊野の説話 |
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◆ 弁慶物語8 脱出 |
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さて。 左衛門は太刀の柄を砕けんばかりに握り、ちょうど(物と物とを打ち合わせるときの音の様子)と打つ。 ここで、おかしく、あわれなのは、吉内左衛門の嫡子で五朗兵衛という者、六十人分の力持ち、心も勇猛であったのを縄持ち(罪人の縄を取って追い立てる役目の者)にお定めになった。 解こうとするけれども暇はない。切る暇もないので、ただ引きに引き立てられ、心ならず走ったが、あまりに早く引くので、後には引き倒されて、起きようとするにも暇がなく、横様になって地面がでこぼこしていようが、石があろうが岩があろうがおかまいなく引き立てられていくが、物によくよく譬えると、暴れている馬が綱を付けた杭を引き抜いて、綱の端に杭を付けながら駆け出ているのに似ている。 石があろうと岩があろうとおかまいなく当てながら走るので、顔も顎もすり破り、顔の形もなくなってしまった。歳を申し上げると、二十七、引き殺されて亡くなってしまった。 ちょうどそのとき、鴨川の水が出て、岸を激しく洗っていて、武蔵坊が川へさっと飛び込むと、頭も少しも見えなかった。「あっ、武蔵坊が流れていると思われる。少しでも姿が見えるならば、ただ射取れよ、若者」と言って、流れに沿って追って行く。 もともと、武蔵坊は水泳が上手である。上流を目指して潜り、真ん中に大石があったのに上って見ると、敵は下流へ追って行く。 敵勢はこれを見て、「どうしてこれほどの大水で上流へ上るのか」「そうであったとしても。敵勢を招くのに、行かないことがあろうか」と取って返して追い掛けた。 御曹子のお供申し上げ、どうして今一度お目にかからないだろうか。崑論山の玉でさえ拾えば尽きるものである。ましてや平家の御事は物の数とも思わない。源氏の御代になすこと、四、五ヶ月の間である。それまでを千年も先のことのように待ち遠しくお思いくださいと伝えてください」と言ったので、人々はこれを聞き、ますます腹を立て、次々に矢を引き滅茶苦茶に射ったけれども、御曹子から兵法は一通り伝えている。上がる矢をさっと潜り、下がる矢を踊り越え、中に来る矢は打ち落とし、浅手ひとつも負わなかった。 その後、「自分たち僧兵が好む技であるので、手並みのほどを見せよう」と言って、河原に飛び渡り、金色のよかった長刀を走りかかって奪い取り、西から東、北から南、蜘蛛手(くもで。四方八方に振り回すこと)、香泡(かくなわ。縦横振り回し交錯させること)、八花形(やつはながた。円の周囲に花弁が八つ付いている花の形)というようにバラバラに分断して斬ったので、大勢の軍兵は群雲が広がって行くようにぱっと退く。 ちょうどそのとき、濃い霧が降りしきって、東西をも見分けられず、法師武者(僧兵)を敵と思い、同士討ちするのにまぎれて、そのようにばかり人を殺しては罪深くなるだろうと、河原を飛び出して帰ったけれども、後についてくる敵もなかった。 そのまま北山(京都市北部の諸山の総称)の奥、岩屋の内にさっと入り、「君はどこにいらっしゃるのか。弁慶が生きて参上しました」と申し上げたので、御曹子も、「私もたった今、六条河原より来たのであった」とおっしゃるので、「真とも思えない嘘です」と、からかい申し上げると、「よそよし、嘘と思うのならば、あなたの振る舞いをひとつひとつ語り聞かせよう。 まず都の近くの庵に行って、太刀、武具を預けおいて、敵の中に駆け入り、師匠を山(比叡山)へ返して、六波羅へ行き、浄海(平清盛)の前で悪口を言って、瀬尾の館に入ったところ、吉内左衛門(きちないさえもん。橘内左衛門尉季康)が酒肴を用意し、酒をいっぱいにして、だまして、義経のありかを白状させようと企んだけれども、漠然としたことを言い、左衛門に腹を立てさせて、六条河原へ引き出し、左衛門がもう斬ろうとしたときには、私は力の及ぶ限りあなたの盾となるつもりだったのだ。 斬りかかってくる一の太刀をはずし、二の太刀を取り直したとき、さっと立ち上がり、走り逃げ、五郎兵衛を引き殺し、その後、縄をねじ切り、鴨川に飛び込み、姿が少しも見えないので、流れたと喜び、敵は下(しも)に下ると、あなたは上(かみ)に浮き上がり、下にいる者を招き寄せ、石を拾って若者の顔や顎を打ち割り、敵の持っている長刀を走りかかって奪い取り、追いかけたり引き退いたりして戦い、太刀や長刀ばかりに心を入れて見えたので、遠方からの矢をいさせては、まずいことになると、義経が霧を降らせたのだ。 「ひとつも違い申し上げません。これほどに思いをかけられたことのかたじけなさよ。来世の果ての尽きるまで忘れがたく覚え申し上げます」と、はらはらと涙を流し、「ご謀叛をお起こしになり、どこの野の果て、山の奥へお差し向けになるとしても、まず先駆けて戦おう」と言って、あれほどに鬼のような武蔵坊も、あまりの御恩のありがたさに、さめざめと泣いてしまった。 そうこうしている間に、浄海がおっしゃったことには、「義経が一人であったときでさえも、不愉快に思っていたのに、今は義経に劣らぬ武蔵と二人で連れ立ち、浄海の代を伺うのだ。この者と申すは、兵法を極め、草隠れの法をもって、霧を立て、霞をなびかしたので、取り扱いに苦慮することである。 この頃、当家が盛んであるのを、運命が尽きている義朝の子として敵意を持つのは蟷螂(とうろう。カマキリ)が自分の鎌を頼りにして、大きな車に立ち向かうようである。そうであるので、あの二人を討ち取って、浄海に見せるものならば、領地と任国は望み通りに与えよう」と仰せになったので、国を頂戴しようと思いながら、我も我もと、夜になると都の内を巡り、咎もなき色白い小男、背の高い法師を見かけると、討ってしまった。 御曹子はお聞きになり、「このように私のために咎なき者を殺させ、人の嘆きを受けるのも罪深い。また、この頃は平家の全盛である。まず奥州(おうしゅう。陸奥(みちのく)。今の東北地方)に下り、都の内にいないことを知らせ、狼藉を鎮めるのはどうか。武蔵坊」とおっしゃるので、 「もっとも適当でありましょう。それならば、都の内にいらっしゃらないと披露申し上げよう」と言って、以前の庵に立ち越え、預け置いた太刀、武具を乞い取りいつもの好みの褐(かちん。濃い紺色)の直垂の菊綴(きくとじ。菊形の飾り)をいっぱいにして、黒糸威の腹巻に、丹生染めの篠懸(すずかけ)柿染めの袈裟を掛け、頭巾を眉深に(眉のなかばにかかるくらいに)かぶって、褐の脚絆に草鞋を履き、三尺六寸の打刀、四尺余りの大太刀を佩き、九寸五分の鎧通しを右の脇にさしながら、金剛杖と名付けて柚子の木の皮を焼いて剥いた長い棍棒に、筋金をすぐにひる巻き(長刀、太刀の柄や鞘に、細い金、銀、道の板を蛭が巻き付いたように斜めに巻き付けること)して、左右の石突(いしづき。槍や長刀などの柄の地面に突く部分を包む金具)を深々と入れ、手だまり(手で握る部分)は琴の弦でみっしりと巻き、右の脇に引きずって、中を自由自在に走り回り、大声を上げて言ったことには、 「御曹子と武蔵坊とは用事があって、奥州へ下るのだ。平家方の人々はいないか。咎なき一般の人々を討つより、この法師を討ち止め、褒美にあずかれよ」と呼ばわり回るけれども、「例の弁慶が相手を求めて尋ね回っているぞ。任国も領地も欲しいけれど、命あってのことなのだ。ああ、恐ろしいありさまだ」とそこかしこでうずくまって隠れているが、向かう者はいなかった。 仕方なく、弁慶は御曹子のお供をして奥州を目指して下った。秀衡はこれを見申し上げて、大いに喜んで、御手勢を集め、弁慶を先として、次信(つぎのぶ。佐藤継信)、忠信(ただのぶ。佐藤継信の弟)がお供して、数万騎の御手勢を率い、まもなく都へお上りになる。三年の間に平家を平らげ、源氏一党の御代となしなさるのは、九郎義経、弁慶のはかりごとだと申し上げる。めでたいことである。 これにて『弁慶物語』はお仕舞い。 軍事の天才・義経の活躍により源氏は平家を滅ぼすことができ、たしかにここまではめでたしめでたしでしということなのでしょうが、平家滅亡後の義経・弁慶主従の運命は悲劇的でした。 1185年、平家を壇ノ浦に滅ぼした源義経でしたが、このときから兄頼朝との不和が表面化。頼朝に追われた義経は、藤原秀衡を頼って奥州平泉に逃げ込みました(義経は16から22歳までの間、秀衡のもとで暮らしていました)。 秀衡の跡を継いだ次男の泰衡(やすひら)のもとには、頼朝を通じて後白河法皇と後鳥羽天皇から「義経を追討せよ、さもなくば朝廷軍を向け征伐する」という脅迫的な院宣と宣旨が送りつけられました。 22歳で頼朝の陣営に馳せ参じ、平家を壇ノ浦に滅ぼしたのが27歳。そのわずか4年後、31歳の若さで義経は波瀾の生涯を閉じてしまいます。 しかし、この 『弁慶物語』(や『義経記』)に語られるような義経や弁慶であれば、平泉での危地をも脱出することができたのではないか。 さて、義経主従を討った奥州藤原氏の運命も悲劇的でした。泰衡は義経の首を鎌倉に送りましたが、もともと奥羽制圧を目論んでいた頼朝は泰衡討伐を開始。義経という軍事の天才を失った奥州藤原氏は、義経の死後半年も経たないうちに滅びてしまったのです。 (てつ) 2003.8.28 UP ◆ 参考文献
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