■ 熊野の説話 |
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◆ 小栗判官6 餓鬼阿弥 |
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さて。 照手の姫の御物語はさておき申して、ことに哀れをとどめたのは、冥土黄泉にいらっしゃいます小栗十一人の殿原たちであって、諸事の哀れをとどめた。 十人の殿原たちは承って、閻魔大王へ、 大王はこれをお聞きになって、「さても汝らは主に功ある輩よ。それならば、後世の模範に、十一人ながら戻してとらせよう」と思われて、視る目とうせんを御前にお呼びになって、「日本に体があるか、見てまいれ」との仰せである。 閻魔大王の御前に参って、 大王はこれをお聞きになって、 そうであるならば、小栗一人を戻せと、閻魔大王様の自筆の御判をお据えになる。 藤沢の御上人は南の方にいらっしゃるが、上野が原に無縁の者があるのだろうか、トビやカラスが笑っていると、立ち寄ってご覧になると、ああ、いたわしや、小栗殿は髪はぼうぼうで、足手は糸より細く、腹はただ鞠を括ったようなもの、あちらこちらを這い回る。両の手を押し上げて、ものを書く真似をしていた。かさにかよと(不詳)書かれたのは、六根かたわ、などと読むべきか。さてはかつての小栗である。 小栗が塚から這い出てきました。口もきけず、耳も聞こえず、目も見えない。餓鬼のような異様な姿で這い回る小栗。 時宗とは、かつては時衆と書かれ、鎌倉時代に一遍上人(1239〜89)が起こし、一遍上人のカリスマ性と「踊り念仏」により、上は大名から下は非人・乞食まで日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新興仏教の一派です。 藤沢の上人がつけた小栗につけた「餓鬼阿弥」という阿弥号(あみごう)のついた名前も時衆らしい名前です。 もともと同朋衆とは時衆の信徒を中心にした同行集団で、鎌倉時代末期から南北朝にかけては、武将に同行し、従軍僧として働きました。負傷者が出れば治療し、死者が出れば菩提を弔い、また合戦のないときには、和歌や連歌、茶の湯をはじめ様々な雑務に仕えていました。 足利将軍に仕えた同朋衆は、芸術顧問役を勤め、文化芸能の世界に多大な影響力を行使しました。いわば室町時代の文化の中心にいたのが同朋衆だったのです。 また、これから小栗が目指す熊野本宮は、時衆にとって根本霊場といってもよいようなとても大切な場所です。 南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのが、じつは、修験道でもなく、ましてや神道でもなく、時衆の念仏聖たちでした。熊野の勧進権を独占した時衆の念仏聖たちは、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広め、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態を生み出したのでした。 上人が、胸札をご覧になると、閻魔大王様の自筆の御判が据えられなさっている。 ああ、ありがたいことだと、御上人も胸札に書き添えなさった。 末をいずくと問うたところ、九日峠(不詳)はこれかとよ。坂はないけれど、酒匂(さかわ。神奈川県小田原市酒匂)の宿よ。おいその森(おそらく大磯の森。神奈川県中郡大磯町)を、えいさらえいと、引き過ぎて、早くも小田原に入ったところ、狭い小路に、けはの橋(不詳)、湯本の地蔵(神奈川県足柄下郡箱根町湯本堂ノ前の地蔵堂)と、伏し拝み、足柄、箱根はこれかとよ。 山中(静岡県三島市内)三里、四つの辻(不詳)、伊豆の三島や浦島や三枚橋(静岡県沼津市三枚橋)を、えいさらえいと、引き渡し、流れもやらぬ浮島が原、小鳥さえずる吉原の富士の裾野をまっすぐ上り、早くも富士川で、垢離(こり。冷水を浴びて、身と心を清めること)を取り、大宮浅間、富士浅間(静岡県富士市の浅間神社。富士浅間宮、大宮浅間社などといわれた)、心静かに伏し拝み、ものをも言わぬ餓鬼阿弥に、「さらば、さらば」と暇乞い、御上人は藤沢に向けて下られた。 檀那がついて、引くほどに、吹上六本松(静岡県庵原郡蒲原町内)はこれとかよ。清見が関(静岡県清水市清見寺の海岸)に上がっては、南をはるかに望むと、三保の松原、田子の入海、袖師が浦(しでしがうら。清水市興津から江尻までの海岸)の一つ松、あれも名所か、おもしろい。噂に聞いた清見寺、江尻の細道、引き過ぎて、駿河の府内(静岡市)に入ったので、昔はないが今浅間、君の御出でに、みようがなや(?)。 蹴り上げて通る鞠子の宿(静岡市丸子)。雉がほろろを撃つのやの宇津の谷峠を引き過ぎて、岡部のあぜ道をまっすぐ上り、松に絡まる藤枝(静岡県藤枝市内)の四方に海はないけれども、島田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、七瀬、流れて、八瀬落ちて、夜の間に変わる大井川。 鐘を麓に菊川(静岡県榛原郡金谷町菊川)の月さしのぼる小夜の中山、日坂峠(静岡県掛川市日阪)を引き過ぎて、雨が降り流したので、路の状態は悪い。車に情けを、掛川の、今日は掛けずの掛川を、えいさらえいと、引き過ぎて、袋井(静岡県袋井市袋井)のあぜ道を引き過ぎて、花は、見付の郷(静岡県磐田市見付)に着く。あの餓鬼阿弥が明日の命は知らねども、今日は池田の宿(静岡県磐田郡豊田村池田)に着く。 昔はないが、今切の両浦を眺める潮見坂、吉田(愛知県豊橋市)の今橋、引き過ぎて、五井(愛知県豊橋市下五井付近あるいは御油か)のこた橋、これとかや。夜はほのぼのと赤坂(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)の糸繰りかけて、矢作(やはぎ。愛知県岡崎市矢作町)の宿。三河に掛けた八橋(愛知県知立市八ツ橋。蜘蛛手の枕詞)の蜘蛛手にものを思うだろうか。沢辺に匂うカキツバタ。花は咲かぬが、実は鳴海(愛知県名古屋市緑区内。)。 とうこの地蔵(不詳)と、伏し拝み、一夜の宿をとりかねて、まだ夜は深い、星が崎(名古屋市南区内)、熱田の宮に車が着く。車の檀那がご覧になって、これほど涼しい(澄んで清い)宮を誰が熱田とつけたのか。熱田大明神を引き過ぎて、坂はないけれど、うたう坂(不詳)、新しいけれど、古渡(名古屋市中区古渡町)、緑の苗を引き植えて、黒田(愛知県葉栗郡木曾川町黒田)と聞くと、いつも頼もしいこの宿だ。 杭瀬川(ぐんぜがわ)の川風が身に冷ややかに沁みる。小熊(おおくま。岐阜県羽島市熊野付近)河原を引き過ぎて、お急ぎなので、ほどもなく、ただの土の車を誰も引くとは思わないけれど、行を施す車のことであるので、美濃の国、青墓の宿(滋賀県大津市青墓町)、万屋の君の長殿の門に、何という因果の御縁やら、車が三日、うち捨てられていた。 鎌倉から室町時代にわたって鎌倉と京都を結ぶ幹線道路であった鎌倉街道という道がありました。その当時の幹線道路を、物語上のことですが、小栗は餓鬼阿弥として土車の乗せられて引かれていきました。そのため、鎌倉街道は地域によっては「小栗街道」とも呼ばれ、街道筋には現在でも小栗や照手にちなむ地名も所々見受けられます。 物語上の人物である小栗の名が幹線道路や場所の名前に付けられるとは、ものすごいことだと思いますが、それほどに小栗判官の物語は大勢の人々の共感を呼んだということなのでしょう。 ああ、いたわしや。照手の姫は、お茶のための清水を汲んでいらっしゃるが、この餓鬼阿弥をご覧になって、こぼした愚痴こそ、哀れである。 「『この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養』と、書いてある。さて、一日の車道は、夫の小栗の御ためにも引きたいものよ。さてもう一日の車道を十人の殿原たちの御ためにも引きたいものよ。二日引いた車道を必ず一日で戻るとして、三日の暇が欲しいものよ。御機嫌のよいときを見定めた上で、暇を乞いたいものだ」 君の長はお聞きになって、 照手はこれをお聞きになって、 君の長はお聞きになって、 照手はこれをお聞きになって、あまりの嬉しさに、裸足で走り出て、車の手縄にすがりつき、一引き引いたは、千僧供養、夫の小栗の御ためである、二引き引いたは、万僧供養、これは十人の殿原たちの御ためといって、心をこめて回向をなされていたが、 御代は治まる武佐(むさ。滋賀県近江八幡市武佐町)の宿、鏡(滋賀県蒲生郡竜王町鏡付近)の宿に車が着く。照手はこれをお聞きになって、人は鏡と言うならば言え、姫の心は、このほどは、あれと申し、これと言い、あの餓鬼阿弥に心の闇がかき曇り、鏡の宿をも見ることはできない。姫の裾に露は浮かないけれど、草津の宿、野路(滋賀県草津市野路町)、篠原を引き過ぎて、三国一の瀬田の唐橋を、えいさらえいと、引き渡し、石山寺の夜の鐘が耳のそびえて、格別よい。馬場、松本(ともに滋賀県大津市内)を引き過ぎて、お急ぎになると、ほどもなく、西近江に隠れなき上り大津、関寺、玉屋の門に車が着く。 照手はこれをご覧になって、あの餓鬼阿弥に添い馴れ申すのも今夜ばかりとお思いになり、宿屋に宿も取らず、この餓鬼阿弥の車のわだちを枕となされ、八声の鳥(夜明け方にしばしば鳴く鶏)はないけれども、夜通し泣いて夜を明かす。 午前四時ころ、空が明けると、玉屋殿へいらっしゃって、料紙と硯をお借りになり、この餓鬼阿弥の胸札に書き添えなされた。 何という因果の御縁やら、蓬莱の山の御座敷で夫の小栗に死に別れたのも、この餓鬼阿弥と別れるのも、どちらも思いは同じもの。ああ、身が二つあったあったならば。一つは君の長殿に戻したい。もう一つの身はこの餓鬼阿弥の車を引いてとらせたい。心は二つ、身は一つ。見送り、たたずんでいらっしゃるが、お急ぎになれば、ほどもなく君の長殿の宿屋にお戻りになったのは、哀れなことでございます。 餓鬼阿弥はハンセン病患者がモデルだと考えられています。 熊野信仰が盛んであった中世においても、ハンセン病は業病とされ、ハンセン病者は最も穢れた存在とみなされていました。 藤沢の上人は、餓鬼阿弥の胸札に「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」という言葉を書きました。 実際に鎌倉街道を通り、熊野を目指したハンセン病者は大勢いたものと思われます。そんなハンセン病者を、街道筋の人々や熊野を詣でる人々、熊野詣から帰ってきた人々が救いの手を差し伸べたのでしょう。 熊野にはハンセン病者たちだけでなく、盲人たちも開眼の奇跡を求めてやってきました。 小栗を乗せた土車は、照手の手を離れ、一般の人々の手により「えいさらえい、えいさらえい」と、熊野本宮、湯の峯の霊泉を目指して引かれていきます。 (てつ) 2002.12.12 UP ◆ 参考文献
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