■ 熊野の歌

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◆ 後鳥羽院


 後鳥羽院(1180〜1239)は第82代天皇。
 高倉天皇の第4皇子で、平家一門が安徳天皇を伴って都落ちしたことを受けて、寿永2年(1183)、祖父・後白河法皇の意向で4歳で即位。15年の在位の後、建久9年(1198)に19歳で譲位、院政を開始し、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って院政を行いました。

 趣味は広く深く、蹴鞠ではその道の長者と称され、琵琶では奥義を伝授されるほどでした。和歌にも熱心で、多くの歌会を催し、『新古今集』撰進の院宣を下し、自らも精選作業を行いました。

 承久3年(1221)に承久の乱に敗れ、出家させられて隠岐に配流され、19年の配所生活の後、延応元年(1239)、60歳で亡くなりました。隠岐では、隠岐本『新古今集』、『時代不同歌合』を編み、『遠歌百首』を詠みました。勅撰和歌集では『新古今集』に初出。

『新古今和歌集』より4首

熊野にまい(ゐ)り侍(はべり)しに、旅の心を/太上天皇

見るまゝに山風あらくしぐるめり都もいまや夜寒(よさむ)なるらむ

(巻第十 羇旅歌 989)

(訳)見る見るうちに山風は荒く吹き、時雨れてくるようだ。都も今頃は夜寒であるのだろうか。
「夜寒」は秋になって夜の寒さが感じられること。またはその寒さ、あるいはその季節。

熊野に詣でまい(ゐ)りてたてまつり侍(はべり)し/太上天皇

岩にむす苔ふみならすみ熊野の山のかひある行くすゑもがな

(巻第十九 雑歌中 1907)

(訳)岩に生えている苔を踏みならして熊野の山の峡を行く、それだけの甲斐のある将来であってほしい。
「かひ」に「峡」と「甲斐」を掛ける。

新宮に詣づとて、熊野河にて/太上天皇

熊野河くだす早瀬のみなれざほ(お)さすがみなれぬ波のかよひ路(ぢ)

(巻第十九 雑歌中 1908)

(訳)熊野川を下す船が早瀬にさす水馴棹(みなれざお)は水に慣れているが、水に慣れていない私にはやはり見慣れない川波の通い路であることよ。
熊野川は、本宮から新宮、新宮から本宮への水上の参詣道。川の熊野古道。
「さす」は「棹」の縁語。「みなれ」は「水馴れ」と「見馴れ」の掛言葉。
隠岐での除棄歌。

熊野の本宮焼けて、年の内に遷宮侍(はべり)しにまい(ゐ)りて/太上天皇

(ちぎり)あればうれしきかゝるお(を)りにあひぬ忘るな神も行(ゆ)くすゑの空

(巻第十九 雑歌中 1911)

(訳)宿縁があるから、このようなうれしい折に会えたのでしょうね。そのことを私は忘れませんから、神もお忘れにならなずに、私の将来をお守りください。
本宮が焼けたのは元久3年(1206)2月28日。同年(建永元年)12月に熊野御幸を行った。

・『夫木抄』:ふぼくしょう、鎌倉後期の私撰和歌集。

はるばるとさかしき峯を分け過ぎて 音無川を今日見つるかな

(訳)遥々と険しい峯を分け過ぎて音無川を今日見たことだ。
音無川に出会った感動を詠んだ歌。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 後鳥羽上皇は生涯に28回もの熊野御幸を行いました。上皇としては後白河上皇の34回に次ぐ回数ですが、その熱心さは後白河上皇をも凌ぐということができるかもしれません。
 後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに28回。往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペースで行ったのです。

(てつ)

2003.3.15 UP
2003.11. 更新

 ◆ 参考文献

新日本古典文学大系11『新古今和歌集』岩波書店

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■後鳥羽院の熊野関連の歌
新古今集…4首
・夫木抄…1首

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