■ 熊野の説話 |
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◆ 蹴鞠の達人・藤原成通 |
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平安時代、貴族の間で大流行したボールゲーム、蹴鞠(けまり)。 白河院の側近に、藤原成通(ふじわらのなりみち。1097〜1159?)という人物がいました。
侍従の大納言成通の鞠は、凡夫の仕業ではなかった。 千日めの満願の日、きちんと身繕いをして、三百回余り鞠をリフティング(右足のみで。蹴鞠には「すべて右足で蹴ること」というルールがあります)したのち、落ちる前に自ら鞠を取って、棚を二つしつらえた。ひとつの棚には鞠を置き、もうひとつの棚には様々なお供物をいろいろと据えて、幣一本をはさみ立てた。その幣を取って鞠を拝した。みな座に付き、饗膳を据えて乾杯した。三献ののち、自分の得意とする歌舞の芸をおのおの奉った。五献で事が終わって、禄を賜った。優れた人には檀紙(だんし。ちりめんじわのある陸奥名産の厚手の白紙)・薄様(うすよう。薄く漉いた上等の和紙。手紙の用紙に用いられた)を、近侍の人々には装束をお与えになった。 驚いたと思いながら、「なにものだ」と荒々しく問うと、「御鞠の精霊です」と答えた。 このような金色で記された名を見て、ますます驚いたと思って、また鞠の魂に問うには、 また問うには、 このことを思い続けていると、鞠を請うには、ヤクワと言い、アリと言い、ヲウと言うのは、鞠の精の額の金色で記された名である(春楊花→ヤクワ。夏安林→アリ)。いかにも由緒のあることであると気がついた、と、かの口伝にあるということです。 蹴鞠の精と出会ってしまうんですね。凄すぎます。話はまだ続きます。 総じてこの大納言の蹴鞠には不思議なことが多かった。 さてまた、侍を7〜8人並べて座らせて、端に座っている者から順に肩を踏んで、沓を履いたまま小鞠を蹴られた。その中に法師がひとりいたので、肩からやがて頭を踏んで通られた。このようなことを1〜2回して終わって、鞠を取って、「いかが思われる?」と問われたので、 また、父の卿(藤原宗通)に従って清水寺に参籠なさっていたとき、舞台の高欄を沓を履いて渡りながら鞠を蹴ろうと思いついて、西から東へ蹴鞠して渡った。また立ち返り、西へ帰られたので、見る者の目を驚かし、色を失わせた。民部卿がお聞きになって、「そのようなことをする者があるか」と言って、籠りの期間の途中で追い出して、1ヶ月ほどは家にも寄せつけられなかったそうである。 清水の舞台の欄干を鞠を蹴りながら往復してしまうとは・・・凄すぎます。 また、熊野(本宮)を詣でて、うしろ拝(後ろ向きに参拝すること)の後、うしろ鞠(後ろ向きに蹴鞠をすること)を蹴られたところ、西より100度・東より100度の2回、合わせて200回上げて落とさなかった。 鞠を伏し拝んで、その夜、西の御前(本宮第一殿。本地仏は千手観音)にお参りしたときの夢に、別当や常住のみな見知った者どもがこの鞠を興じてほめあっていたが、別当が「どうしてこれほどの美技に対して褒美の品を与えないことがあろう」と言って、ナギの葉を一枝、奉った、という夢を見た。 うしろ鞠というのは、かかとでリフティングするということなのでしょう。
ナギはマキ科に属する針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもつちょっと変わった樹木です。 葉の丈夫さからナギにはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があったそうです。 藤原定家が後鳥羽上皇に随い熊野を詣でたときの歌に、
とあり、熊野のナギは全国的な名の知れ渡った名木でした。 また、父の卿の坊門殿(五条坊門高倉にあった父宗通の邸宅)の懸りの下に簾をかけた車があったのを、片懸りにして鞠の会があったが、車の側で他の者がたびたび鞠を落としたので、大納言は、「私がすれば落とさない」と言って、位置を代わってお待ちになったところ、鴟の尾(とびのお。牛車の屋形の後方に短く指し出た2本の棒)の方へ鞠が落ちた。車のまわりを回りこんでは、絶対に地面に落ちてしまいそうだったので、轅(ながえ。牛車の屋形の前方に長く指し出た2本の棒。牛の背につなぐ部分)の方からくぐり越えざまに鞠をたびたび出された。さらに轅の方へも落ちそうだと思われたら、鴟の尾の方から走りくぐって越えて、庭(蹴鞠場の中央部をいう)へ出された。人々は驚き、声をあげてとめどなく賛嘆しあった。 民部卿は目の当たりに確かに見せられて、「これほどのことになったので、とやかくいうべきことではない」と言われた。蹴鞠が終わってからの後、「車を懸りの木に見立てて、車ばかりを並べてはどうか」と勧められたので、車庫にある車を3両引き出して奥隅に轅の方を向けて立てたのを3両、順々にくぐり越えられた。大いに感動して、褒美が与えられた。 総じて、様々に不思議に驚くようなことがあったなかで、鞠を高く蹴り上げることは、並みの人には3倍たちまさっていた。ある日、鞠を高く上げられたところ、つむじ風が物を吹き上げるように、鳶か烏が付いたとか大きな声で言っているうちに、空に上がって雲のなかに入り、見えなくなってそのままになってしまった。不思議なことであった。このこと、虚言なき由、誓状(神仏に誓って記した書状)に書かれたとか。これもかの口伝に載せていた。 父の大納言が、その昔、仏師を召して仏を作らせていられていたとき、端の御簾を上げて、格子戸のもとに寄りかかっておられたところ、成通卿がいまだ若くて、庭で鞠を蹴上げられたが、鞠が格子と御簾とのなかに入ったのを追って飛び込みなさったが、父の前、不作法であったので、鞠を足に乗せて、その板敷を踏まずに、山雀がとんぼ返りを打つように飛び帰られたのは凡夫に仕業ではなかった。 だいたい、この大納言はこのように若いときから速業を好みなさって、築地の側面、あるいは檜垣(ヒノキの薄板を編んで張った垣根)の側面などをも走られた。また、屋根の上に臥して、棟より転び降りて、軒では安定した形でお座わりになるときもあった。父の卿が制止なさったが、おさまらなかった。 このことを鳥羽院がお聞きになって、ご制止されたが、それでも止まなかったので、御前に召して、 現在の日本サッカー界に藤原成通のような選手がいたら、すごいでしょうね。 ついでながら、日本サッカー協会のシンボルマークは3本足のカラス「八咫烏(ヤタガラス)」は熊野の神の使いです。日本代表チームのユニフォームのエンブレムにもヤタガラスが描かれています。 シンボルマークは中村覚之助氏の死後に制定されたものですが、中村氏の日本のサッカー普及への貢献の大きさをかんがみ、氏の故郷である熊野の神使をシンボルマークとして取り入れようということになったようです。 藤原成通の話に戻って、成通は歌人としても優れ、西行との親交も知られています。私歌家集『成通集』があります。勅撰集では『金葉集』に初出。『金葉集』から成通の歌を1首。
水の面(おも)に散りつむ花を見る折ぞはじめて風はうれしかりける
また、成通は今様の優れた歌い手でもあり、今様を歌って女房に取り憑いた物の怪を取り払った(『古今著聞集』巻十一)とか、今様を歌って乳母の病を取り払った(『十訓抄』十)とか、成通の歌う今様がある種の癒し効果をもっていたことを語る話が伝えられています。 (てつ) 2002.10.1 UP ◆ 参考文献
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