■ 熊野の説話 |
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◆ 熊野権現垂迹縁起 |
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長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家や学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、その『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」は、現存する文献の上では熊野縁起最古のものです。 昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (おうししん。王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山(ひこさん))に天降りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。そのような姿で天降りになった。それから5年が経った。 庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。それから57年が過ぎた。 壬午の年、本宮大湯原の一位木(イチイガシ(あるいはイチイか))の3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。8年が経った。 件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。件の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。 熊野権現は中国天台山から飛来し、英彦山、石槌山、諭鶴羽山という修験の霊山を経て東に進み、熊野に垂迹したとされますが、実際のところは、熊野から西へ西へと、九州の英彦山まで熊野修験の勢力が広まっていったということなのでしょう。 英彦山は福岡と大分の県境にそびえる北九州の最高峰(1200m)で、大峰山・羽黒山と並ぶ日本三大修験道場の霊山です。 石槌山は四国の最高峰(1982m)で、西日本でも最高峰。修験の霊山として知られました。 諭鶴羽山は淡路島最高峰(608m)。やはり修験の霊山で、古くから熊野十二所権現が祀られており、創建の由緒譚も「熊野権現垂迹縁起」によく似ています。 狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。 熊野権現は各地の修験の霊山に立ち寄ったあと、紀州に入り、切部、神倉、石淵谷を経て、本宮大斎原に3枚の月の姿で降臨したとされます。 熊野には、旧暦11月23日に昇る月が3体となって見えるという三体月の伝承があり、現在でも毎年、中辺路町と本宮町では、旧暦の11月23日に「月待ち」の行事が行われています。 熊野の「三体月」伝承は、やはり実際に月が3体に見えたことがあったために生じたのでしょう。 「幻月」とは、空気中の氷の結晶による光の屈折で起こる大気現象で、月の両脇に幻の月のような光が現われる非常に珍しい現象です(太陽にも見られる現象で、太陽の場合は幻日(げんじつ)と呼ばれます)。 特定の月齢の夜、地域の人々が寄り合って、月の出を待って月を拝む行事のことを「月待ち」といいますが、何月に行われるかは地域地域によって様々で、待つ月の月齢も様々です。 旧暦23日の月は「二十三夜月(にじゅうさんやづき)」と呼ばれ、深夜12時ころに顔を出すため、「真夜中の月」ともいわれます。真夜中まで月待ちして月を拝むことで願いごとを叶えることができるとされたためか、「二十三夜待ち」が最も一般的な月待ちです。 最初の熊野権現の発見者が猟師であるというのは、熊野信仰のもともとの担い手が狩猟民であったということを示しています。 そのため、熊野信仰のもともとの担い手が狩猟民であったということはまったく当然のことなのですが、神社というと農耕と結びつくものというような先入観のようなものがなんとなく私にはあったため、ちょっと新鮮に感じました。 狩猟というものは、決して効率のよい作業ではありません。 多くの狩猟民は、動物たちを森の神さまのものだと考えています。 かつての熊野の狩猟民もそのような考え方をしていたかどうかはわかりませんが、狩猟民により祀られた神ということから考えて、熊野本宮大斎原に祀られた神さまはやはり森の神さまなのではと私は思います。 (てつ) 2004.2.3 UP ◆ 参考文献
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