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−−−以下 神社本庁 平成祭礼データから−−−
新熊野神社の「新」は「あたらしい」ではなく、「あらたかな」熊野神社の意味です。 又「新」を「いま」と読むのは、「新」は「いま(今)」に通じ、日々新しい心で、 「今」を充実して大切に生きる神様の教えの現れです。
伊邪那美命、速玉男命、事解之男命、天照大神を主神とし、天忍穂耳命他3柱の皇祖 皇宗の神、軻遇突智命他3柱の生活と産業を守る神々12柱祀られている。特にこの 世とあの世への厄災をはらい清める神々が祀られている。(新熊野12社権現とも称 す)
後白河上皇は、紀州国(今の和歌山県)の、熊野三山(本宮、新宮、那智宮)を尊崇 し、平清盛公を造進使として、熊野の霊地をこの地に再現するため、遥々熊野より土 砂材木などを運び、地境を築き、宮殿を造り永暦元年(1160)上皇の御所「法住 寺殿」の東北の地に熊野の新宮を創建された。これが現在の新熊野神社である。
創建の頃は、古書に「宮殿廻廊甍を並べ金銀珠玉を鏤ばめ……繁栄は他社に冠絶して いた」とある。応保2年(1162)。勅使(平清盛公)参向し、大神宮の例に準じ て行われた。(官幣の大社)養和元年(1181)当社永代維持のため、諸国28ヶ 所の庄園、社領が寄進され、以後300有余年間社殿堂宇魏然として在立し、祭儀連 綿として厳修された。しかれども応仁の兵火以後衰微し、又度重なる兵火により壊廃 し、天文年間を以て祭儀不能、以後120年間廃絶同様の状態であった。しかるに4 代徳川家綱の時、後水尾上皇の中宮東福門院は、当社の復興を発願され、禁中を始 め、諸御所や将軍家諸大名より寄進を得、寛文13年(1673)聖護院宮道寛法親 王により再建されたのが、現在の社殿である。社殿は入母造妻入の熊野造の古制を伝 える全国的にも類例の少ない貴重な遺構で、京都市の重要建造物である。
−−− 平成祭礼データは以上 −−−
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