■ 熊野旅行記 |
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◆ 後深草院二条『とはずがたり』 |
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『とはずがたり』は、後深草院(1243〜1304。第89代天皇)の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院大納言源雅忠の娘。1258〜?)がその生涯を回想して綴った日記文学作品。 全五巻から成りますが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できます。 後編二巻では、前編から足掛け五年の空白を置いて、二条が出家を遂げてからのことが語られます。 簡単に取り急ぎ内容をご紹介しましたが、後深草院二条の生涯はじつに凄まじいです。 出家後の二条の仏道修行は並々ならぬもので、五部の大乗経を書写する宿願を立て、西行にならって修行の旅に出て、各地の寺社を詣で、縁起を聞いて結縁し、歌を詠み、写経しました。 それでは、後深草院の一周忌の後に行われた那智参詣の場面を現代語訳をしてご紹介します。 後深草院二条、四十八歳。 このころからか、また法皇(亀山院)が御病気ということがあった。そのようなことばかりがそうそうお続きになるはずでもない。法皇の御病気はいつものことなので、これを限りと思い申し上げることでもないのに、御回復の見込みがおありにならないということで、すでに嵯峨殿へ御幸したと耳に入る。去年、今年と続いたお悲しみはどうした御事なのかと、及ばぬ御事ながら、しみじみとあわれに思い申し上げる。 般若経の残り二十巻を、今年書き終えようという宿願を、数年このかた、熊野で果たしたいと思っておりましたので、ひどく水が凍らぬ前にと思い立って、長月(陰暦九月)の十日頃に熊野へ立ちましたときにも、法皇のご病状はまだ同じご様子とお聞きするも、結局どういう給果をお聞き申しあげるだろうか、などとは思い申し上げたけれども、去年の後深草院の崩御の折のお悲しみほどにはお嘆き申しあげにならなかったのは、情けない愛別離苦(愛する人と生別、死別しなければならない苦しみ)の思いであることよ。 例の宵・暁の垢離(こり。冷水を浴びて、心身を清めることと)の水を前方便になずらえて、那智の御山にて、この経を書く。長月の二十日過ぎのことなので、峰の嵐もやや激しく、滝の音も涙の声と争ようで、悲しみを尽くした心地がするので、
父母の形見の品の残りをことごとく売却して、写経をつぎつぎと営む心ざしを、熊野権現も納受されたのであろうか、写経の日数も残り少なくなって、御山を出る予定の日も近くなったので、お名残も惜しくて夜通し拝み申し上げなどして、ちょっとまどろんだ暁方の夢に、 故大納言(亡父、源雅忠)のそばに私はいたが、故大納言は「後深草院のお出ましの途中」と告げる。 また、父大納言に「遊義門院(ゆうぎもんいん。1270〜1307。後深草院の娘。この時点では存命中。母は東二条院)の御方もお出ましになったぞ」と告げられる。 また後深草院を見申し上げると、なお同じ様子で心地よさげなお顔で「近くに参れ」とお思いになっている様子である。私は立って御殿の前にひざまずく。白い箸のように、元のほうは白々と削って末のほうには梛(なぎ。熊野の神木)の葉が二枚ずつある枝を、院は二つとりそろえて下された。 と思って、ふと目が覚めると、如意輪堂(にょいりんどう。今の那智山青岸渡寺)の懺法が始まるところである。 夢のなかの院の御面影も、覚めて後の袖に涙として残って、写経も終わりましたので、最後まで大切に残し持っていた御衣を、いつまで残し持っていられようと思い申し上げて、御布施に、泣く泣く取り出しました折に、
那智の御山にみな奉納して帰りましたときに、
かの夢の枕もとにあった扇を、今は院の御形見ともしようと自ら慰めて帰ってきましたが、はや亀山法皇が崩御されたことを承ったので、うち続かれた世のお悲しみも、有為無常の情けない習いとは申しながら、心につらく思われて、私だけが命尽きずにむなしく生きながらえ、この世を立ち去ることもないうちに、年も改まった。 那智に籠って通夜した暁にまどろんで見た夢には、熊野権現ではなく、後深草院が登場します。 証誠殿で心地よさげな様子でいらっしゃる後深草院。 遊義門院は後深草院の忘れ形見。 この那智参詣の翌年、二条は、石清水八幡宮で遊義門院の御幸に出会って、門院との面識を得、後深草院の三回忌の折には、那智で得た白い檜扇を門前に奉りました。 (てつ) 2005.9.10 UP ◆ 参考文献
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