■ 熊野の説話 |
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◆ 滝尻王子、藤原秀衡の子捨て |
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和歌山県西牟婁郡中辺路町栗栖川に五体王子の一つ、滝尻王子(たきじりおうじ。右の写真)があります。 奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が子種を授かったお礼に熊野参詣した。 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。 この子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)である。 藤原秀衡は奥州平泉の鎮守府将軍。無尽蔵ともいうべき財力をもち、17万騎といわれる騎馬軍団を従え、奥羽(今の東北地方)を治めた豪族。源頼朝にも恐れられた北の王です。 藤原秀衡の三男が泉三郎忠衡。 1185年、平氏を壇ノ浦に滅ぼした源義経でしたが、このときから頼朝と義経の不和が表面化。頼朝に追われた義経は、秀衡を頼って奥州平泉に逃げ込みました(義経は16から22歳までの間、秀衡のもとで暮らしていました)。 秀衡の跡を継いだ次男の泰衡(やすひら)のもとには、頼朝を通じて後白河法皇と後鳥羽天皇から「義経を追討せよ、さもなくば朝廷軍を向け征伐する」という脅迫的な院宣と宣旨が送りつけられました。 泰衡は義経の首を鎌倉に送りましたが、もともと奥羽制圧を目論んでいた頼朝は泰衡討伐を開始。義経という軍事の天才を失った奥州藤原氏は、義経の死後半年も経たないうちに滅びてしまいます。 そんな奥州藤原氏滅亡の歴史のなか、秀衡の息子たちのなかで、ただひとり気を吐いた感のあるのが、三男の忠衡。義経を守ることが奥羽の平和を守ることだと、他の兄弟たちと対立。ただひとり父の遺言どおりに義経と組んで、頼朝の奥羽制圧の野望を打ち砕こうと考えていたのが、三男の忠衡なのでした。そのため、義経の死後、泰衡に攻め殺されてしまいます。時に忠衡23歳のころ。 なぜ、滝尻の裏山の乳岩に置いていかれた赤子が、長男の国衡や嫡男の泰衡などではなく、三男の忠衡だったのか。おもしろいですね〜。 熊野詣にまつわるお話でもっとも有名であろう物語が、安珍清姫の物語。その安珍は奥州白河の僧(鞍馬寺の僧という話もある)だという話。奥州から熊野へ。そんな遠いところからも人々を引き付ける不思議な力が熊野にはあったのでしょうね。 それにしても、子種を授かったお礼に熊野詣しているのに、生まれてきた赤子を置き去りにするなんて、なんて無茶なことをするのでしょうか。だいたい妊娠中の妻を連れて熊野詣をすること自体が無茶な話だと思いますけれど.。(^-^;) ところで、狼が人の子を育てる話で有名なのが、ローマの建国神話。 ローマの建国者ロムルスは、レムスと双子の兄弟として生まれた。 そこへ羊飼いがやって来て、結局、二人は人に育てられ、のちのち、ロムルスはローマの初代の王となるのです。 狼に育てられただけではなく、狼が父であったり、母であったりする神話もあります。 モンゴル人の祖先バタチカンの父は青い狼であり、母は美しい鹿であった。バタチカンから十代目がドブン=メルゲンで、その妻アラン=ゴアが生んだ子供の末っ子ボドンチャルが、チンギス=ハンの祖先である。 乳岩からさらに熊野古道を本宮のほうに向かって歩いていくと(7時間ほど。普通は途中の近露という所で一泊します)、野中(のなか)という所に秀衡桜があります。 滝尻で生み落とした子を乳岩に残したまま、旅を続けた秀衡夫妻。 桜の枝ではなく、桜の杖を突き立てたという話もあります。 さらに熊野古道をいくと、小広峠(こびろとうげ)という所に着きます。 昔は昼なお暗い山道で、野獣や魔物が現れる不気味な場所であったが、それらから旅人や村人を守てくれる狼の群れがいたという。そこから「吼比狼(こびろう)峠」と呼ばれるようになり、「小広峠」となった。 ということです。 昔は、この峠の周りの山々で、夜中に狼がいっせいに吼えたてることがあり、土地の人たちはこれを千匹狼と呼び、これは狼が吉野の山上ケ岳へ参るために勢ぞろいしているのだといわれた。 狼は、ススキの穂1本あればその身を隠すといわれ、その神速、忍耐強さ、堂々たる姿などから「山の神さん」として敬われていました。 (てつ) ◆ 参考文献
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