■ 熊野の説話 |
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◆ 徐福伝説 in 熊野 |
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熊野には徐福が渡来したとの伝承が伝わっています。 徐福とは、紀元前3世紀の中国・秦(しん)の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)。いまから2200年くらい前(日本でいえば弥生時代初期)の人物です。始皇帝の命により、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年年少女を引き連れて船出し、この熊野に上陸したと伝えられています。徐福一行は熊野の地に上陸すると、そこに住み着き、里人にさまざまな新技術を伝えたといわれています。 徐福の渡海は、司馬遷が著した中国の歴史書『史記』などに記されていて、それらの記事と実際に大陸からの渡来者があったことから、徐福が日本に渡来したとの伝説が発生したのでしょう。 斉の人徐市(=徐福。「市」」と「福は同音)が始皇帝に、 とあり、始皇三十七年(B.C.210)の条には、 徐市は海に出て仙薬を求めたが、数年を経ても得られず、巨万の富を費やしたというのに、ついに仙薬を得ることはできなかった。 始皇帝はこの年の7月に亡くなっています。 また徐福を遣わして、東海に入って仙薬を求めさせた。 秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。 中国では、徐福は伝説上の人物で、徐福と始皇帝との出会いは歴史的事実ではなくある種の民間伝承だと、長らく考えられてきたそうですが、1982年に中国江蘇省連雲港市かん楡県で、徐福の故郷であるとの伝承をもつ徐福村(現徐阜村)が発見されたことにより、徐福が実在の人物として学術研究の対象となるようになったそうです。 『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。 始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号を名乗った人物です。 始皇帝は王のなかの王としての威勢を誇示するために、多くの人民を徴発し、万里の長城や阿房宮などの大土木事業に取り組みましたが、なかでも驪山陵の造営には七十余万人の刑徒を徴発して労働に当たらせ、建設が終わると刑徒たちを生き埋めの刑に処したといいます。 絶対的な権力者である始皇帝は驚くべき残忍性をしばしば発揮しました。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といい、儒家思想弾圧のために、詩・書・百家の類の書を全て焼き捨て、それに反発する儒生460余名を生き埋めの刑に処したりもしました。 暴虐ぶりを見せつけ、中国全土を支配し、望むものすべてを手に入れたであろう始皇帝が最後に求めたものが不老不死の仙薬でした。 不老不死の仙薬を見つけられなければ死刑、一族ともども死刑に処す。これくらいのことは始皇帝ならやるでしょう。 不老不死の仙薬を探しに行くと偽って、一族で国外逃亡する。 始皇帝の側にしてみれば、たしかに徐福はペテン師でしょう。しかし、徐福の側にしてみれば、自分たちの命を守るために国外逃亡を企てたということだったのだと思います。 徐福が渡来したとの伝承を伝える地域は、熊野だけでなく日本各地に多数あります。 また日本と中国との交流により、中国側でも徐福が日本に渡ったとの説が受け入れられたようでした。多数ある日本の徐福渡来伝承地のうちで、中国側で最も一般的だったのが熊野の地だったようで、徐福が熊野に渡ったとの話が中国側の文献の上でいくつか見られます。 それでは、熊野における徐福伝説を見ていきましょう。 まずは新宮市。 徐福は上陸すると、熊野川河口付近にある孤丘・蓬莱山(ほうらいさん)の麓に住み着き、里人に農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すきなどの技術を伝えた。連れて来た童男童女の子孫は熊野の各地の長となった。 JR新宮駅近くには、徐福の墓が建ち、徐福公園として整備されています。 また蓬莱山(そもそもこの名前も徐福に因んだものでしょう)の麓に鎮座する阿須賀神社には徐福の宮が祭られ、阿須賀神社の境内からは、戦後の発掘調査により、徐福が暮らした跡かどうかはもちろんわかりませんが、弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土しています。 徐福一行は何十艘もの船で船出したが、台風に遭い徐福の船だけが波田須町の矢賀(やいか)の磯に流れ着いた。そのころ、波田須には家が3軒しかなく、その3軒の人たちで徐福らの世話をした。 徐福らは波田須に住み着くことを決め、「徐」姓を使わず、「秦」から波田・波多・羽田・畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗った。そして3軒の人たちに焼き物の製法や農耕や土木、捕鯨、医薬などの技術を伝えたとされる。 との徐福渡来伝承が伝わります。 徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、また丸山からは焼物の破片や秦代の通貨「大型半両銭」などが出土されています。 熊野では、農耕、漁法、捕鯨、造船、紙すき(徐福紙。那智紙、音無紙の名で知られたそうです)、焼き物、土木、医薬などの新技術はすべて徐福から伝えられたものだとされてきました。実際に徐福本人が熊野に渡って来たのかどうかはわかりようもありませんが、世界最速の海流・黒潮の流れに乗って、熊野に漂着する者がときおりあったであろうことは想像できます。 それらの漂着者のなかの幾人かが大陸の新技術を熊野の土着民に伝えるということもおそらくはあったのではないかということも想像できます。徐福渡来伝承はそのような名もなき渡来者の歴史を「徐福」の名を借りて伝えているものなのでは、とも私は思います。 ところで、徐福が求めた霊薬は「天台烏薬」(てんだいうやく)というクスノキ科の常緑低木だとされますが、天台烏薬は新宮市の徐福公園や阿須賀神社、熊野市波田須町の徐福の宮で見ることができます。 天台烏薬が日本では、日向の高千穂と熊野以外には自生しないため、神武天皇が東征の途上、この地に植えたのだとする説もあるそうです。 そういえば、徐福=神武天皇説というのもあるそうで、たしかに、進んだ技術をもった民族が数千人という単位で移住してきたというのなら、そういうこともありうるかもしれません。時代的にも弥生時代初期ということで合うような気がしますし。 徐福一行が数十人までの人数なら、原住民も彼らを受け入れることができたと思いますが、数千人は多すぎます。そのような大勢の異民族に突然やって来られたら、原住民の側としては脅威を感じざるを得ないのではないでしょうか。しかも相手はこちらより進んだ技術を持っている。生き方、考え方も違う。衝突が起こるのが当然だと思います。 徐福一行は未開の蛮族の土地で生き延びるために戦闘せざるを得なかったのかもしれません。力の差をはっきりとさせて地域を支配していくということが生き延びるために必要だったのかもしれません。実際のところどうだったのかは知りようがありませんが。 (てつ) 2003.2.11 UP ◆ 参考文献
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