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徐福公園(じょふくこうえん)

和歌山県新宮市徐福1-4-24

徐福、不老不死の仙薬を求めて熊野に上陸

徐福の墓
徐福の墓

 「徐福の墓」を中心として整備された公園で、JR新宮駅から東に200mほどの所にあります。
 一際目立つ中国風の現在のような形になったのは平成6年(1994年)のことです。

 徐福は、紀元前3世紀の中国・秦(しん)の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)。いまから2200年くらい前(日本でいえば弥生時代初期)の人物です。始皇帝の命により、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年少女とさまざまな分野の技術者を引き連れて船出し、この熊野に上陸したと伝えられています。

 徐福一行は新宮の地に上陸すると、熊野川河口付近にある孤丘・蓬莱山(ほうらいさん)の麓に住み着き、里人に農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すきなどの技術を伝えたのだといわれています。
 蓬莱山の麓に鎮座する阿須賀神社の境内からは、戦後の発掘調査により、徐福が暮らした跡かどうかはもちろんわかりませんが、弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土しています。また、現在でも阿須賀神社には「徐福の宮」が祭られていて、徐福伝説に多少の信憑性を与えています。

 『史記』秦始皇本紀

徐福公園

 徐福の渡海は、司馬遷が著した中国の歴史書『史記』などに記されています。
 『史記』秦始皇本紀の始皇二十八年(B.C.219)の条には、

 斉の人徐市(=徐福。「市」」と「福は同音)が始皇帝に、
 「海中に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があり、仙人がおります。私は斎戒して汚れなき童男童女を連れ、不老不死の仙薬を得たいと思います」と書面で願い出た。
 そこで始皇帝は徐市を遣わし、童男童女数千人を海上に送りだして仙人を求めさせた。

 とあり、始皇三十七年(B.C.210)の条には、

 徐市は海に出て仙薬を求めたが、数年を経ても得られず、巨万の富を費やしたというのに、ついに仙薬を得ることはできなかった。
 徐市は譴責を恐れ、
 「蓬莱に行きさえすれば仙薬を得ることができます。しかし、いつも大鮫に苦しめられて島にたどりつくことができません。どうか大鮫を射止めるために弓の名手の同道をお許しください」と偽りの奏上をした。

 始皇帝はこの後、この年のうちに亡くなっています。

『史記』准南衡山(わいなんこうざん)列伝

徐福公園

 また『史記』准南衡山(わいなんこうざん)列伝では、

 また徐福を遣わして、東海に入って仙薬を求めさせた。
 徐福は帰還すると、
 「私は海中の大神にお会いしました。大神は『お前は西の皇帝の使いか」と尋ねられたので、その通りですと答えると、さらに『お前は何を求めているのか』と尋ねられました。私は延命長寿の仙薬を求めておりますと答えました。
 すると、大神は『お前の仕える秦王の礼物が薄いので、お前には見せてやるが、採らせるわけにはいかない』といわれ、私をすぐに蓬莱山へ連れていってくださいました。そこには霊芝に囲まれた宮殿があり、仙界の使者がいました。それは灼銅色の龍のような身体をもち、発する光は天まで照らしていました。
 そこで私は再拝して、どのような礼物を持参したらよいか尋ねました。大神は『良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。
 秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。
 徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった。そこで人々は悲しみ嘆き、反乱を起こそうとする者が十戸のうち六戸に及んだ。

徐福は伝説上の人物?

徐福像

 中国では、徐福は伝説上の人物で、徐福と始皇帝との出会いは歴史的事実ではなくある種の民間伝承だと、長らく考えられてきたそうですが、1982年に中国江蘇省連雲港市かん楡県で、徐福の故郷であるとの伝承をもつ徐福村(現徐阜村)が発見されたことにより、徐福が実在の人物として学術研究の対象となるようになったそうです。

 『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。

 始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号を名乗った人物です。
 徹底的な専制政治を布き、数多の大改革を断行、統一国家としての礎を築きましたが、その手法ははなはだ強引で暴力的でした。

 始皇帝は王のなかの王としての威勢を誇示するために、多くの人民を徴発し、万里の長城や阿房宮などの大土木事業に取り組みましたが、なかでも驪山陵の造営には七十余万人の刑徒を徴発して労働に当たらせ、建設が終わると刑徒たちを生き埋めの刑に処したといいます。
 絶対的な権力者である始皇帝は驚くべき残忍性をしばしば発揮しました。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といい、儒家思想弾圧のために、詩・書・百家の類の書を全て焼き捨て、それに反発する儒生460余名を生き埋めの刑に処したりもしました。

 暴虐ぶりを見せつけ、中国全土を支配し、望むものすべてを手に入れたであろう始皇帝が最後に求めたものが不老不死の仙薬でした。
 始皇帝は各地の神仙の方士に命じて不老不死の仙薬を求めさせましたが、その薬に効果がなければやはり死刑に処すという苛烈さであったことでしょう。

 不老不死の仙薬を見つけられなければ死刑、一族ともども死刑に処す。これくらいのことは始皇帝ならやるでしょう。
 生き延びるために、徐福は智慧を絞り、自分の命と一族の命を賭けて、残忍暴虐な絶対権力者である始皇帝をペテンにかける大勝負に出た。これが実際の状況だったのではないでしょうか。
 不老不死の仙薬を探しに行くと偽って、一族で国外逃亡する。
 徐福が連れていった「良家の童男童女三千人」と「さまざまな分野の技術者」というのは徐福の一族から選ばれた者たちであったのではないでしょうか。

 始皇帝の側にしてみれば、たしかに徐福はペテン師でしょう。しかし、徐福の側にしてみれば、自分たちの命を守るために国外逃亡を企てたということだったのだと思います。

日本の徐福渡来伝承地

徐福之墓
徐福之墓

 徐福が渡来したとの伝承を伝える地域は、熊野だけでなく日本各地に多数あります(熊野にも新宮市の他に三重県熊野市波田須(はだす)に徐福が渡来したとの伝承があり、徐福の宮や徐福の墓があります)。
 『史記』などの中国の歴史書の記事と実際に大陸からの渡来者があったことから、徐福が日本に渡来したとの伝説が日本の各地で生まれたのでしょう。
 また日本と中国との交流により、中国側でも徐福が日本に渡ったとの説が受け入れられたようでした。多数ある日本の徐福渡来伝承地のうちで、中国側で最も一般的だったのが熊野の地だったようで、徐福が熊野に渡ったとの話が中国側の文献の上でいくつか見られます。

 徐福公園の徐福の墓は初代紀州藩主・徳川頼宣が建設を計画し、それからおよそ100年後の1736年に現在地に建てられたのだそうです。墓碑には「秦徐福之墓」と刻まれています。

七塚之碑
七塚之碑

  墓碑の右横にあるのは「七塚の碑」で、徐福に仕えた7人の重臣を祀っています。昔は、7つの小円墳が蓬莱山を中心に北斗七星の形に作られていたらしいのですが、大正四年(1915年)に現在の場所にひとまとめにして祀られるようになりました。

 また、徐福が求めた仙薬は「天台烏薬」(てんだいうやく)というクスノキ科の常緑低木だとされ、この公園内にも植えられています。天台烏薬はもともと中国の原産ですので、徐福が日本に持ち込んだのだと考えられています。
 この天台烏薬を服用したところで不老不死が得られるはずもありませんが、腎臓病・リウマチなどに効果があり、活性酸素消去作用にもすぐれているそうです。

 公園内にある売店では、天台烏薬を用いた「徐福茶」や、鳥羽一郎が歌う「徐福夢男/徐福音頭」のCDなどが売られています。
 また、この売店で、無料で自転車をレンタルすることができるので(保証金2000円、返却時に全額返金。時間はAM8:30 ~PM5:00)、新宮市散策に御利用になられたら便利なことと思います。また、有料ですが、チャイナドレスのレンタルもできます。500円で公園内で着用できます(補償金7000円、返却時に全額返金。1泊2日は3000円、1日延長につき1000円プラス)。

阿須賀神社(和歌山県新宮市阿須賀)
徐福の宮(三重県熊野市波田須町)

(てつ)

2003.2.9 UP
2020.2.15 更新

参考文献

徐福公園へ

アクセス:JR新宮駅から徒歩2分  新宮市へのアクセス
駐車場:有料駐車場あり

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