終戦前後の2度の大地震で失われた大岩
川湯温泉の背後にある飯盛山の山頂近くにかつて大きな岩がそそりたっていました。高さ10m、周囲15mの大岩。
その岩をホコジマさんと呼んでこの地方の有力な2家、T家とK家が祀っていました。
その岩はカミクラとも呼ばれ、神武天皇のとき高倉下命(タカクラジノミコト)がここで剣を得たとも伝えられます。
その大岩は、昭和東南海地震(1944年〔昭和19年〕12月7日)と昭和南海地震(1946年〔昭和21年〕12月21日)の終戦前後の2度の大地震で谷に滑り落ちて砕けてしまい、今では見ることができませんが、大岩の跡地には祠が建てられていて今も祀られています。
大岩の跡地から下がったところにはハチジョウさんと呼ばれる岩があります。そこにはホコジマさんのお使いが住んでいて、岩のもとに生魚を供えると、すぐに供え物がなくなることがあったとか。このホコジマさんのお使いは狼だといわれます。
安政6年(1859年)にここを訪れた幕末の国学者、熊代繁里(くましろしげさと。1818~1876)は、紀行文「熊野日記」のなかで、「巌のたけ三丈ばかりなるがそそり立ちて、その下つかたに洞あれど、地震などにてさけたるさまにて、さる神代の跡とも見ず」と記しています。
口熊野・田辺に在住した世界的博物学者南方熊楠はホコジマについて次のように記しています。
…那智から雲取を越えて請川に出て川湯という地に到ると、ホコの窟という底の知れない深穴がある。ホコ島という大岩がこれを覆う。ここで那智のことを話せば、たちまち天気が荒れるという。
亡友栗山弾次郎氏方より、元日ごとに握り飯をこの穴の口にひとつ供えて、周囲を3度歩むうちに必ず失せてしまう。石を落とすと限りなく音がして転 がって行く。この穴は、下湯川とどこかの2つの遠い地へ通じている。昔の抜け道だろうと聞いた。栗山家は土地の豪族で、その祖弾正という人が天狗を切った と伝える地を、予も通ったことがある。いろいろと伝説もあったろうが、先年死んだから尋ねようがない。
また川湯温泉の川の流れの中にはかつて大島と屏風岩という2つの大きな岩がありました。それらの岩はホコジマのところから飛んで落ちてきたものだといわれ、ホコジマと一体であると信じられていましたが、明治時代に筏流し(木材を筏に組んで人が乗り、下流に流して川の流れで木材を運搬すること)のときに邪魔になるからと割られてしまいました。
ホコジマさんへは川湯温泉バス停から徒歩約40分、あるいは渡瀬温泉バス停から徒歩約30分。
今回、私は渡瀬温泉バス停からホコジマさんに向かい、その後、川湯温泉に下りました。渡瀬から川湯へは昔の街道が通っています。街道とはいっても、現在は通る人も滅多にないので道は荒れています。
ホコジマさんへの行き方
渡瀬温泉バス停の向こうに見えるのが飯盛山。
渡瀬温泉バス停から飯盛山方向へ。徒歩1分ほどで飯盛山への登り口となる階段があります。
渡瀬と川湯を結ぶ街道。
街道を15分ほどを登っていくと四つ辻へ出ます。そのまままっすぐいくと川湯に下りていきます。
向かって左、鳥居のある道がホコジマさんへの道。ホコジマさん一の鳥居。
四つ辻から15分ほどで二の鳥居。鳥居をくぐり、進んでいくと小屋があり、その先に祠があります。
帰りは川湯温泉に向かいました。
川湯温泉が見えます。
公衆浴場の近くに下りていきます。
川湯温泉から渡瀬温泉バス停まではトンネルを通って徒歩約10分。
(てつ)
2010.3.1 UP
2010.4.7 更新
2010.8.17 更新
2017.1.4 更新
2020.3.11 更新
2021.7.5 更新
参考文献
- 植島啓司『熊野 神と仏』原書房
- くまの文庫3『熊野中辺路 伝説(下)』熊野中辺路刊行会
- 中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第2巻〉南方民俗学』 河出文庫
ホコジマへ
アクセス:JR新宮駅から熊野交通バスなどで約1時間、渡瀬温泉バス停下車、徒歩30分。またはJR紀伊田辺駅から龍神バスなどで1時間45分、渡瀬温泉バス停下車、徒歩30分
駐車場:駐車場なし