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神倉神社(かみくらじんじゃ)

和歌山県新宮市神倉1-13-8  神倉社:紀伊続風土記(現代語訳)

熊野根本大権現

神倉神社石段

 神倉神社熊野速玉大社の飛地境内摂社です。
 新宮市中心市街地の西側にある千穂ヶ峯の東南端を神倉山(かみくらさん)といい、その山上に神倉神社があります。
 熊野速玉大社からは徒歩15分ほどで神倉山の麓に着きます。

 正面に社殿が見えますが、それは猿田彦神社神倉三宝荒神社です。
 猿田彦(サルタヒコ)は、高天原から地上に降る天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)を降臨地・日向高千穂まで導いた国津神。
 その容貌は異様で、『日本書紀』には「鼻の長さ七咫(あた。一咫=四寸という説に従うと、およそ85cm)、背の高さ七尺(およそ210cm)余り。まさに七尋というべきである。また口の端は明るく光っている。眼は八咫鏡(やたのかがみ)のようで、照り輝いていることは赤酸漿(あかほおずき)に似ている」とあります。
 鼻の長さから天狗を連想させる異形の神様です。天狗の住処とされた神倉山にふさわしい神様なのかもしれません。
 三宝荒神社については、すぐ近くに立てられた看板の由緒に「三宝荒神社(火産霊神・誉田別命)は立里(高野山)にあり、願望成就、商売繁盛の御神徳が高い」と書いてありました。

神倉神社石段

 神倉神社に参拝するには猿田彦神社神倉三宝荒神社の左手にある朱塗りの鳥居をくぐり、自然石を組み合わせて積み重ねた「鎌倉積み」の急峻な石段を登らなければなりません。

 この鎌倉積みの石段、初めて見る人はそのあまりの急勾配におそらくビビります。私も初めて見たときはビビりました。
 怖いです。転んだりしたらどこまでも転がっていきそうです。2度め、3度めになると慣れて平気で登れるようになりますけれど、最初は怖いと思います。

 鳥居は両部鳥居。
 両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)のことでを、両部鳥居は神仏混淆の神社に多く見られます。

 石段は538段。初めての人でも10分くらいあれば登れると思いますが、高所恐怖症の人は足がすくんで登れないかもしれません。地元の人は子供でも年配の方でもスタスタ登っていきます。
 石段は最初から最後まで急なままというわけではなくて、急なところは上り口から中の地蔵までの二百段まで。そこまで登り切れば、後は緩やかになります。
 ただ、上りより下りのほうがもっと怖いので、そのことは頭に入れておいてたほうがいいかもしれません。

 この石段は、源平合戦における熊野の功労を賞して、建久4年(1193年)に源頼朝が寄進したものと伝えられています。鎌倉時代の貴重な遺物として知られているそうです。素晴らしい石段です。こんな石段、きっと他にはない、と思います。

神倉神社ゴトビキ岩

 石段を登り切ると、山上にも鳥居があり、一枚岩の岩盤の上に数個の巨岩がどっかりと腰を下ろしています。
 その巨岩群が神倉神社の御神体で、ゴトビキ岩と呼ばれています。
 ゴトビキとは熊野地方での方言でヒキガエルのことで、最も大きな巨岩の形がヒキガエルに似ているところから付けられたようです。

 ゴトビキ岩の横に小さな社殿が設けられ、高倉下命(タカクラジノミコト)と天照大神が祭られていますが、もともとは、この巨岩群そのものが神が降臨する場所として崇拝されたのでしょう。
 最初に神倉神社は「熊野速玉大社の摂社」だと書きましたが、神倉神社は聖地としては速玉大社よりも遥かに古い歴史をもっているものと思われます。
 ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸の破片が発掘されています。おそらくは、縄文時代の昔から、神道や神社などというものが存在する以前から、崇拝されていた場所であったのだと思います。

 巨岩を御神体とする神倉神社は、やはり巨岩を御神体とする花の窟神社や滝を御神体とする那智の飛瀧(ひろう)神社とともに古代の熊野の自然崇拝の姿を今日まで伝えているということができるでしょう。

高倉下命

神倉神社ゴトビキ岩

 神倉神社の祭神である高倉下命について。
 『古事記』や『日本書紀』には、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征の途上、熊野を行軍したことが記されており、そのときに登場するのが高倉下命です。

 神武天皇は初め、日向の高千穂の宮にいましたが、兄のイツセノミコトとともに東方に天下を治める都を造ろうと大和に向かいました。瀬戸内海を渡り、難波から淀川を溯上、河内に入り、大和に向かおうとしましたが、大和の豪族のナガスネビコの迎撃にあい、イツセノミコトが矢傷を負い、撤退。
 神武はこの敗戦を、太陽女神アマテラスの子孫であるにもかかわらず太陽に向かって戦ったためと考え、紀伊半島を南に迂回して熊野から北上して大和に侵入することを目指します。イツセノミコトは熊野に至る前に命を落としました。
 さて、この続きを『古事記』と『日本書紀』より現代語訳します。

古事記 現代語訳

 さて、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコミコト)はそこから迂回しなさって熊野の村にお着きになったときに、大きな熊が草木のなかから出たり入ったりして、すぐに姿を消した。
 すると、カムヤマトイワレビコミコトは急に気を失って、また、軍隊もみな気を失って倒れてしまった。
 このときに熊野高倉下が一振りの横刀(たち)を持って、天つ神の御子(カムヤマトイワレビコミコトのこと)の倒れている所に来て、その横刀を献上したところ、天つ神の御子はたちまち目覚めて、「長寝したものだ」とおっしゃった。
 そして、その横刀を受け取りなさるときに、その熊野の山の荒ぶる神は自然とみな切り倒されてしまった。すると、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めた。

 そこで、神の御子はその横刀を得た仔細をお問いになったところ、高倉下が答えて、
 「私の夢に、天照大御神と高木神の二柱の神が建御雷神(タケミカヅチノカミ)を召して、『葦原の中つ国はたいそう騒がしいようである。我が御子たちは困っているらしい。その葦原の中つ国は、もっぱら汝が平定した国である。そこで、汝、建御雷神が降って再び平定せよ』とのご命令をお下しになった。
 すると、建御雷神は、『私が降らずとも、もっぱらその国を平定した横刀があるにで、この刀を降しましょう』とお答え申し上げた。※この刀の名を佐士布都神(サジフツノカミ)という。またの名を甕布都神(ミカフツノカミ)という。またの名を布都御魂(フツノミタマ)。この刀は現在、石上神宮にいらっしゃる。
 そして、建御雷神は今度は私に向かって、
 『この刀を降す方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れよう。そこで、朝、目が覚めたら、お前は、この刀を持って、天つ神の御子に献上しろ』とおっしゃった。
 そこで、夢の教えのままに朝早く自分の倉を見たところ、ほんとうに横刀があった。よって、この横刀を持って献上したのです」と申し上げた。

日本書紀 現代語訳

 天皇はひとり、皇子の手研耳命(タギシミミノミコト)と軍を率いて進み、熊野荒坂津に至られた。そこで丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を誅された。そのとき神毒気(アヤシキイキ)を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわなかった。すると、そこに熊野高倉下という名の人がいた。
 この人のその夜の夢に、天照大神が武甕槌神(タケミカヅチノカミ)に語っていわれるのに、「葦原の中つ国はたいそう騒がしい。汝が行って平定せよ」と。
 すると、武甕槌神は、「私が行かずとも、私がその国を平定した剣を差し向けたら、国は自ずと平定されるでしょう」と答えられた。天照大神は「もっともだ」といわれた。
 そこで、武甕槌神は高倉下に向かって、
 「私の剣の名は『ふつのみたま』という。いま、あなたの倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」と語った。高倉下は「承知しました」と答えると、目が覚めた。
 そこで、夢の教えのままに翌朝、倉を開いてみると、ほんとうに剣が落ちていて、倉の床板に逆さに刺さっていた。それを取って、天皇に献上した。そのとき天皇はよく眠っておられたが、たちまち目覚めて、「自分はどうしてこんなに長寝したのだろう」とおっしゃった。ついで、毒気に当たっていた兵士たちもみな目覚めて起き上がった。

神武軍を迎え撃った氏族、手を結んだ氏族

 『古事記』の「大きな熊」に代わって、『日本書紀』では「丹敷戸畔」が登場します。
 丹敷戸畔は熊野の土豪の女酋長だと考えらていれます(丹敷戸畔の「戸畔」は女酋長のことを意味するといわれます)。登場してすぐに神武に殺されてしまう謎の人物で、詳しいことはまったくわかりませんが、おそらく、熊野には熊をトーテムとする氏族がいて、神武東征時、その氏族の酋長が丹敷戸畔という女性だったということなのでしょう。

 人間や人間の集団が、特定の動植物との間に、不思議なつながりがあると信じて、その動植物の名前を自分につけたり、その動植物を傷つけたり殺したりしないという習俗をトーテミズムと呼びます。
 我々は熊と不思議な絆を持っている。
 そのように考える氏族が熊野にいて、その氏族が侵略者である神武軍を迎撃し、そして、破れさったのでしょう。

 神武軍は、「大きな熊」「丹敷戸畔」の毒気により進軍不能なまでのダメージを受けましたが、高倉下の献上した霊剣「ふつのみたま」により神武軍は蘇りました。高倉下の協力がなければ、神武東征も熊野の地で潰えていたのかもしれません。
 『古事記』『日本書紀』ともに、この後、八咫烏が登場し、神武軍は熊野・吉野の山中を八咫烏の先導により軍を進めていきます。

常世の国、根の国の入り口

神倉神社から新宮市街を望む

 神倉神社からは新宮市街および熊野灘が一望できます。ゴトビキ岩は新宮市街からも見え、麓から見ると、ゴトビキ岩は、神倉山の中腹、麓から60mの高さでそそりたつ崖の上にあるのがわかります。その崖やゴトビキ岩は海から見てもよく目立ち、熊野灘で漁をする際の重要な目印となったことでしょう。
 この崖が、『日本書紀』の神武天皇紀にある天磐盾(あまのいわだて)だといわれています。『日本書紀』の先に現代語訳した部分の直前には次のような記述があります。

日本書紀 現代語訳

 6月23日、軍は名草邑(なくさむら)に着いた。そこで名草戸畔(ナクサトベ)という者を誅された。ついに狭野(さの。新宮市佐野か)を越えて、熊野神邑(くまののみわのむら。新宮市の熊野川河口付近か)に到り、天磐盾に登った。軍を率いて進んでいった。海上にあるとき、急に暴風に遇った。舟は漂い、弄ばされた。
 稲飯命(イナヒノミコト。神武の兄)は嘆いて言われた。「嗚呼、我が祖先は天神、母は海神であるのに、どうして私を陸に苦しめ、海に苦しめるのか」と。言い終わってから、剣を抜いて海に入り、鋤持神(サビモチノカミ)となられた。
 三毛入野命(ミケイリノミコト。神武の兄)もまた恨んで言われた。「我が母とおばはともに海神であるのに、どうして波を立てて溺れさせるのか」と。そして、波頭を踏んで、常世国に行かれた。

 熊野灘で神武は二人の兄を失います。
 また『日本書紀』にはイザナミがカグツチを生んで死んだのち、その遺体は紀伊国の熊野の有馬村に葬られたとの記述があり、また、スクナヒコナが熊野の御崎から常世(死後の国)に渡ったとも記されています。さらにはスサノオも紀の国に渡り、熊成山から根の国(死後の国)に入った、とも記されています。

 熊野の地は、大和の人々には山の遥か彼方にある辺境の未開の地であって、死者の国、死後の世界に近しい土地だと考えられていたようです。とりわけ神々が死後の国に入るときには熊野こそがその入口にふさわしいと考えられていたのかもしれません。

熊野神が熊野において最初に降臨した聖地

 平安後期、熊野三山が神仏習合を進めるなか、神倉山も神仏習合を果たしました。神倉山は神倉聖(かんのくらひじり)と呼ばれる修験者たちの修行場となりました。
 長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、『長寛勘文』に記載された『熊野権現垂迹縁起』には以下のように記されています。

熊野権現垂迹縁起 現代語訳

 昔、唐の天台山の王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶となって、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現であると伝えられる。

 熊野三所大神が熊野において最初に降臨した聖地が神倉山であると考えられていました。そのため、神倉神社は熊野根本大権現とも呼ばれました。
 九州の彦山、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山、と各地の修験霊場である山々を巡り、たどり着いた熊野の神倉山。他のどこよりも修験道場として熊野の地は優れているのだということを示しているのでしょう。

熊野比丘尼の本寺

 熊野の根本聖地である神倉山は、熊野信仰が全国レベルで庶民にまで広がっていくその歴史のなかでも、やはり重要な役割を果たします。
 神倉山の麓の社務所の隣には、妙心寺という、現在は住持もおらず、 訪れる人もほとんどない廃寺があります。
 妙心寺は、代々、京都から公卿の娘が住持として赴任するしきたりとなっていたという由緒ある尼寺で、慈覚大師(平安時代前期の僧 円仁。794~864)の創立と伝えられますが、鎌倉時代に神倉神社の本願寺院(神社の建物の維持修理にあたる補佐的な寺院)となり、熊野比丘尼(くまのびくに)の本寺とされました。

 院や貴族の参詣もなくなり、荘園の数も減っていった室町時代以降、熊野三山は経済的に苦境に立たされたといわれています。そこで、より多くの参詣者を集め、より多くの人々からの喜捨を集めるために、熊野信仰をより広めることが必要となりました。
 戦国時代の頃に熊野信仰の拡大のために大きな役割を果たしたのが、熊野比丘尼と呼ばれた僧形の女性芸能者たちです。彼女たちは熊野三山に属し、熊野信仰を広めながら各地を勧進(社殿の修理などのために寄附を集めること)して歩きました。彼女たちは、熊野牛王宝印烏牛王ともいう)を売り、『観心十界曼荼羅(地獄極楽図とも熊野の絵ともいう)』や『那智参詣曼荼羅』などを絵解きし、熊野の聖なる土地としてのイメージを人々の心に浸透させていきました。

 この熊野比丘尼たちの本寺が、新宮神倉の妙心寺と本宮の西光寺でした。
 熊野比丘尼たちは、諸国を勧進して集めた浄財を持って、毎年暮れに本寺である妙心寺や西光寺に戻り、浄財は本寺に献金。浄財は、本寺から熊野三山のそれぞれに社殿の修理費用として分配されました。
 熊野比丘尼たちは、暮れから正月にかけて年籠りをし、熊野牛王宝印や護符、勧進を正式に認めるという「願職」の免許状の更新などを本寺から受けてから、それぞれの持ち場に戻り、あるいは諸国を巡り歩く勧進の旅へと赴きました。

 女性たちが熊野信仰の拡大に大きな貢献を果たしているというのは、女性を寛く受け入れた熊野ならではの特筆すべき点であると思います。
 熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら、女人禁制をとらず、女性の参詣を積極的に受け入れました。当時、不浄とされていた女性の生理でさえも、熊野権現はいっこうに気にしないのだ、とさえ言われていました。

 しかし、江戸時代に入ると、紀州藩の宗教政策のために熊野三山は神道化し、寺を拠点に活動していた熊野比丘尼たちは勧進権を失い、熊野三山と切り離された形になってしまいました。そのため、熊野比丘尼たちは、春をひさぐようになり、色比丘尼ともいわれるようになってしまいました。
 そして、明治初年に廃仏毀釈が行われると、熊野比丘尼の姿は完全に消え、妙心寺も廃寺となりました。

お燈祭

 毎年2月6日夜に行われる神倉神社の例大祭、お燈祭(おとうまつり)は、勇壮な火祭として知られ、平成28年(2016年)3月にお燈まつりは熊野速玉祭(くまのはやたままつり)と合わせて国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 白装束の男たちがあの急勾配の石段を火のついた松明を持って駈け降ります。荒々しい男の祭です。この日だけは神倉山は女人禁制になります。

神倉神社お燈祭り2002200320042005その12005その22007

お燈祭りをたどる旅

(てつ)

2002.7 UP
2008.12.8 更新
2020.2.6 更新

参考文献

神倉神社へ

アクセス:JR新宮駅から徒歩15分
駐車場:出雲大社新宮教会横に神倉神社観光客用駐車場あり(利用時間 7:00~19:00、駐車可能台数 6台)

新宮市の観光スポット