■ 熊野の説話 |
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◆ 和光同塵 |
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鎌倉時代の高僧、無住(1226〜1322)が著した仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』にこんなお話が(巻第一 九)。
上総国(かずさのくに。今の千葉県中央部)高瀧(養老川上流地方の旧庄名)という所の地頭が熊野へ年詣(としもうで。厄年の難を除くための参詣の意か、年ごとに参詣する意か)をした。 この僧が娘を見て心にかけて、どうにも堪え難くなると思われるにつれて、「私は清浄の行を修する心ざしがあって霊験あらたかな社で仏法を修行しようと思い企てたところに、このような悪縁にあって妄念を抑えられないのは口惜しいことだ」と思って、本尊(本地仏)にも権現(垂迹神)にも「この心を止めてください」と祈り請うたけれども、日を経るにつれて、あの容姿の幻影が眼前に添い立って離れず、何ごとも考えられなかったので、耐えられなくなって心が馳せる方角へでも行ってみようかと笈を背負って上総国へ下った。 さて、鎌倉を過ぎて六浦(むつら。今の神奈川県横浜市金沢区にある海岸)という所で、好都合に出る船を待って上総へ渡ろうと思って、浜にうち伏して休んでいたところ、歩き疲れていたのでまどろんで夢を見た。 好都合に出る船を得て、上総国へおし渡り、高瀧は尋ねて行ったところ、あの主人に出会って、「どうしてここまでお尋ね下りになったのですか」と言う。 互いの心ざしが深くなると、男の子が一人できた。父母はこれを聞いてたいそう怒ってすぐに不孝者として勘当したので、忍んでまた縁ある人のもとに隠れ住んで年月を送ると、父母は「ただ一人の娘だ。仕方ない」と言って許した。 やがて、この子が十三歳という年に元服のために鎌倉へ上る。様々な道具を用意して船を数多くしたてて海を渡ったが、そのとき折しも風が激しく波が高いときだったのに、この子は船端で遠くを見やっていて、過って海に落ちた。 さて、十三年の間のことをつくづくと思い続けると、ただ片時の眠りの間のことである。たとえ本意を遂げて楽しみ栄えるとしても、きっとしばらくの間の夢であるのだろう。喜びがあるとしても悲しみもあるに違いない。 和光同塵という言葉があります。『老子』に「その鋭を挫き、その粉を解き、その光を和らげて、その塵に同ず」とある文から出た言葉で「すぐれた才能を隠して俗世間に交わること」を意味しますが、仏教ではそれを「仏が、仏教の教化を受け入れることのできない人を救済するため、本来の智慧の力をやわらげ、人々の受け入れやすい姿をとって現れること」という意味で使うようになります。 熊野の神々のことを「熊野権現」「熊野三所権現」「熊野十二所権現」などといいますが、この「権現(ごんげん)」とは「権(かり)に現われたもの」という意味です。仏菩薩が仮の姿で現われたもの。 神と仏とを共存させる神仏習合は、もちろん熊野のみで行われたわけではなく、日本の各地で行われました。神も仏も日本人にとっては同じようなものだったのだと思います。 明治の無茶な神仏分離令により神と仏とははっきりと分断されてしまい、神仏習合を基とする熊野信仰は壊滅的なまでに衰えてしまいましたが、神仏習合こそが日本人にとってもっとも馴染みやすい信仰のあり方だったのだと思います。 (てつ) 2005.8.12 UP ◆ 参考文献
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