■ 熊野の説話 |
||||||
|
|
カスタム検索
|
|||||
◆ 熊野山全寿院法華寺の縁起2 |
||||||
|
神奈川県横浜市港北区師岡町1168にある熊野山全寿院法華寺の『縁起』。現代語訳2。 さて、また当社の筒粥というのは、人皇62代村上天皇の御時、天暦3年(949年)正月7日、7歳の女子に託して熊野権現が述べられた。 これによって6か村の氏子が14日の晩に当社の宝前に集まり、神託のように相計らい、三分、七分、乃至十分の筒を検べて、その年の吉凶は少しも違うことはない。 それ以来、当郡の108郷では当社権現の筒粥をもって日記となして、秋に至って実るのか、実らないのかを知った。まことに利性衆生済度の方便はありがたい。これによって他国でも、この筒粥があるというが、当社の例をもって致すのだ。 故に、当社権現に1度参詣して、頭を垂れた人達は、現世では七難を払い、七福を生ず。また一切の大願が叶わないということはない。掌の中に玉を掬うようである。 しかしながら、中頃、源平両家の戦が起こって人の心も安穏でない。故に諸国の神社仏閣はみな疎かになった。そのときに当たって、当社権現は、村上帝より以来227年の後、零落に及んで、別当、止住の僧がいない時節があった。 その頃、源義信公の子息が台家の門(天台宗)に入り、叡山の山王院に居住して台宗を年久しく学んだ。しかしながら平家が盛んで、源氏は衰えていたため、心を苦しめて廻国に向かおうと欲し、叡山を出て諸国を巡り、霊仏、霊社に参詣して、苦行を行った。その名を延朗上人と号す。その上人が当社に参籠して止住する。 その頃は80代高倉院の御時、承安4年(1173年)春、天下がみな旱魃して、川の流れが止まり、農民は田畑への用水を失う。小雨は降っても田畑を潤すことはない。よって禁裏では公家穿儀があり、その評定はまちまちである。 そのなかである公卿が、 延朗は勅を奉って、12の龍頭を作り、八大龍王を当社に勧請し奉って、密法を行じてお祈りになると、大雨が3日3夜止むことなく降った。これによって一天四海、みなことごとく潤った。万民はとてもの悦んだ。 帝は感激なさって光孝天皇の例に任せて、当社を再興なさった。また禁裏においては衆僧を集め、天子自ら大般若経600巻を書写しなさって、当社の御宝殿に納め奉り賜わっている。この経は、今に至って当寺第一の重宝である。これによって毎年正月8日にこの経を転読し奉るのだ。 その後、人皇82代後鳥羽院の御時、元暦元年(1184年)春、右大将源頼朝公が平家追討を御願として鶴岡八幡宮において鎌倉中の僧衆を集めて大般若を転読させる。また近国の寺社においても二十壇の密法を行わせた。そのときも当社権現の宝殿において正月8日に般若を転読し奉るように仰せ付けられたのだ。 これによって、その年の正月8日に氏子が拝殿に集まり、怨敵退散悪魔降伏の縄を曳き、御注連縄と名づけて、東・南・西の3ヶ所の鳥居に懸け、般若を転読し、長日の護摩があった。正月8日の御注連縄大般若転読というのはそのときの例である。まことに霊験あらたかであることは枚挙にいとまがない。 人皇98代、崇光院の御時、観応2年(1351年)6月17日の夜半、雷火によって焼失した。まことに光孝天皇の御后妃の御願成就によって草創された御宝殿、並びに末社は、一時の灰塵となったのだ。村中の俗徒、社僧がこれを防ごうとしても、力及ばなかったのだ。 このとき不思議なことがあった。このようなところに僧侶が2人来て高倉院より納め奉り賜う大般若と雨乞いの12の龍首は麓の池の水に投げ入れた。
また本地の弥陀と天より下った牛王の札はお見えにならない。 この井の水はいかなる洪水にも増すことがない。いかなる旱魃にも減ずることがない。故に禅定水と名づけた。その水を頂戴して飲むときは、病疾が速やかに減じる。これは人の知るところである。
今の御殿というのは、雷火以後、当今人皇99代後厳院貞治2年(1363年)に当郡108郷を勧めて建立した物である。8月1日に遷宮を遂げたので、その日を神事例祭日となす。 まことに光孝后妃の建立も代替わり、時移ればかくのごとし。およそ聖武帝以来、年暦はすでに631年に及んでいる。よって縁起は件のごとし。 武州都築郡神奈川領師岡村 大阿闍梨律者法印 これにて現代語訳完了。
(てつ) 2011.5.12 UP ◆ 参考文献
|
Loading...
Loading...
|
スポンサード リンク 関連商品 |
||||
|
||||||
|
|
||||||