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平家物語6 文覚上人の荒行

真言僧・文覚上人の那智での修行

文覚上人画像 神護寺蔵
文覚上人画像 神護寺蔵

頼朝の挙兵を促したのが文覚上人

 治承4年(1180)、以仁王が討たれたのが5月23日、三井寺が焼き払われたのが同じ月の27日。
 以仁王の乱に三井寺と南都が協力し決起したことに驚いた清盛は、寺院勢力との武力衝突を避けるため、翌6月2日、取り急ぎ、都を平家の拠点のひとつである福原(現兵庫県神戸市兵庫区)への遷すことを強行しました。
 清盛は3歳の自分の孫 安徳天皇とその生母・建礼門院のみならず、後白河法皇、高倉上皇までも新都に移し、平家打倒の動きを封じ込めようとしました。 

 遷都がなって3ヶ月が過ぎた福原に、伊豆の国の流人・源頼朝が舅の北条時政とともに挙兵したとの報告が東国から伝えられました。
 源頼朝は平治の乱の首謀者・義朝の嫡子。本来なら、父義朝と同様に死罪になっていた人物です。死罪にするところを、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が早世した息子の家隆と頼朝が似ているからと執拗に助命を嘆願し、それに負けた清盛が刑を減じて流罪としたのです。
 「命を救われた恩を忘れたか」と清盛の怒りは凄まじく、頼朝勢を討伐するために孫の維盛(これもり。重盛の嫡男)を大将軍、薩摩守忠度(さつまのかみ・ただのり。清盛の弟)を副将軍にして、三万余騎の軍勢を福原から出陣させました。

 頼朝は伊豆に流されてからの20年、一族の菩提を弔うために念仏に明け暮れる日々を送っていました。そんな頼朝に近づいて挙兵を勧める人物がいました。
 その人物とは、文覚(もんがく。1139 ?~1203 ?)という真言宗の僧。
 文覚とはどのような人物であったのでしょうか。文覚が『平家物語』に初登場するのが巻第五の「文覚の荒行の事」です。

『平家物語』巻第五「文覚の荒行の事」全文現代語訳

 かの頼朝は平治元年(1159)十二月、父 左馬頭(さまのかまみ)義朝の謀叛によってすでに誅せられるはずであったのを、故池禅尼がひたすらに嘆きおっしゃるので、生年十四歳と申した永暦元年(1160)三月二十日に伊豆の北条、蛭が小島(現静岡県田方郡韮山町、狩野川の中洲の湿地帯)へ流されて二十余年の春秋を送り迎えていた。
 これまでの年月、事を構えずにいたから無事に過ごしてこられたのに、この年、いかなる心で謀叛を起こされたのかというと、高尾(現京都市右京区の高雄尾にある神護寺)の文覚上人の勧め申し上げたことによってである。

 そもそもこの文覚と申す者は、渡辺党の遠藤左近将監茂遠(えんどう・さこんのしょうげん・もちとお)の子で、遠藤武者盛遠といって、上西門院(鳥羽天皇の第二皇女、統子)の所の衆である。

 ところが、十九の年に道心を発し、髻(もとどり)を切って出家し、修行に出ようとしたが、「修行とはいかほどの難事であろうか。試してみよう」といって、六月の、風がなく草ひとつ揺るがない陽の照った日にある傍らの山里の薮の中へ入り、裸になり、仰向けに臥す。
 虻やら蚊やら、蜂・蟻などという毒虫どもが、体にひしっと取り付いて、刺し、喰いなどしたけれど、ちっとも体を動かさなかった。七日までは起き上がらなかった。八日めに起き上がって、「修行というのはこれほどの難事であろうか」と、人に問うと、「それほどの荒行をしたら、どうして命がもつだろうか」と言う間、「それでは容易いことだ」といって、修行に出た。

 熊野に参って、那智籠りしようとしたが、「まず修行の小手調べに、名高い滝にしばらく打たれてみよう」と言って、滝本へ参った。頃は十二月十日過ぎのことであるので、雪が降り積もり、氷が張りつめて、谷の小川は音もしない。峰の嵐が吹き凍り、滝の白糸がつららとなって、みな一面に真っ白で、四方の梢も判別できない。

 けれども、文覚は滝つぼに降りて浸る。首のところまで漬かって、慈救の呪(じくのしゅ:不動明王の陀羅尼の一種。「慈救」は衆生をめぐみ救済するという意味で、不動明王の大・中・小の三種の陀羅尼のうちの中呪。のうまくさんまんだざらだん、せんだまかろしやだ、そはたや、うんたらたかんまん)を唱えて所願の回数を満たそうとしたが、二、三日は堪えたが、四、五日にもなると、文覚は堪えることができずに浮き上がった。
 数千丈みなぎり落ちる滝なので、どうして堪えることができようか。さっと押し流され、刀の刃のように鋭い、それほどまでに角立った岩角の中を浮いたり沈んだりして、五、六町(一町は約109m)も流れた。
 そのときにかわいらしい童子がひとり来て、文覚の手を取って引き上げなさる。人は不思議に思って、火を焚いてあぶったりしたところ、まだ寿命が尽きる時期ではない命ではあり、文覚はほどなく蘇生した。

 文覚は大きな眼を見開いて、大音声をあげて、「われは、この滝に二十一日間打たれて、慈救の呪を三十万回唱えるという大願がある。今日はわずか五日めである。まだ七日にもならないのに何者がここまで運んで来たのか」と言ったので、聞く人は身の毛がよだって、物を言わなかった。文覚はまた滝つぼに帰り立って、滝に打たれた。

 それから二日めに、八人の童子が来て、文覚の左右の手を取って、引き上げようとしなさると、さんざんにつかみ合って上がらない。三日めにとうとう亡くなってしまった。

 そのとき、滝つぼを穢すまいとしてか、びんづら(髪を真ん中分けして耳の辺りで束ねて結んだもの)を結った天童が二人、滝の上からお降りになって、じつに暖かく香しい御手で文覚の頭のてっぺんから手足の爪先、手の平に到るまで、撫で下ろしになると、文覚は夢心地して蘇生した。

 「そもそもいかなる人でおありになるので、このように憐れみなさるのでしょうか」と問い申し上げると、童子は答えて言うには、「われはこれ、大聖不動明王の御使いで、金迦羅(こんがら)、制多伽(せいたか)という二童子である。『文覚が無上の願を発し、勇猛の行を企てた。行って協力せよ』との明王の勅によって来たのである」とお答えになる。
 文覚は声を荒げて、「さて、明王はどこにいらっしゃるのか」。
 「兜率天(とそつてん。弥勒の浄土)に」と答えて、二人の童子は雲居はるかにお上がりになった。
 文覚は掌を合わせて、「さては、我が行を、大聖不動明王までもが知っていらっしゃるとは」といよいよ頼もしく思い、やはり滝つぼに帰り立って、滝に打たれた。

 その後は、まことにめでたい瑞相どもが多かったので、吹いてくる風も身にしまず、落ちてくる水も湯のごとし。
 かくして二十一日の大願をついに遂げたので、那智に千日籠った。大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士山、伊豆、信濃の戸隠、出羽の羽黒、すべて日本国残る所なく、修行して回って、さすがにやはり古里が恋しかったのだろうか、都へ上ったところ、飛ぶ鳥も祈り落とすほどの刃の験者(刀の刃のように鋭い験力を持つ修験者)と噂された。

那智での修行後

 一度ならず二度までも死にかけた熊野の那智での滝行。
 これほどまでにすさまじいまでの荒行に文覚上人が打ち込めたのは、取り返しのつかない過去の過ちに対する悔恨からでしょうか。
 文覚は俗名は遠藤盛遠といい、もとは上西門院の北面の武士でしたが、十九歳のときに、人妻である袈裟御前を横恋慕し、思いあまって夫を殺そうとし、誤って袈裟御前を殺してしまったのです。この事件をきっかけに盛遠は発心し、剃髪して出家を遂げました。

 那智での千日籠りの後、文覚は各地の霊山を修行してまわり、その後に都に戻りました。都では、文覚は高雄の奥に住み、神護寺の復興を志しましたが、後白河法皇のいる法住寺殿に押し入り大声で勧進帳を読み上げて、法皇の怒りを買うなど、勧進の強引さが目立ち、ついに伊豆に流されます。
 その配流先で文覚は、やはり流人である頼朝に出会ったのでした。文覚は頼朝をたびたび尋ねます。

 福原遷都から1ヶ月が過ぎたころ、文覚は、頼朝の父・義朝のものだという髑髏を持って頼朝に会い、頼朝に挙兵を促します。
 頼朝は「自分は勅勘(天皇のお咎め)をこうむっている身であり、勅勘を許されない限り、謀反を起こすことできない」とその申し出を断るのですが、
 「ならば、ただちに上京し、法皇からお許しをいただいてこよう」と、文覚は自身も勅勘の身ながら、新都に向かってしまいます。

 頼朝は文覚のためにまた苦境に追いやられるのではないかと不安で仕方がなかったのですが、文覚は出発してから8日めに再び頼朝のもとに姿を現わしました。

 「そら、院宣よ」
 そう言って、文覚は後白河法皇から取り付けた平家打倒の院宣を頼朝に差し出しました。
 この院宣を、頼朝は手を洗い口をすすぎ身を清め、新しい烏帽子、浄衣を着て、三度拝して慎んで受け、そして、ついに平家打倒に立ち上がることを決意したのです。

 

 

(てつ)

2003.1.24 UP
2019.10.27 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉