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平家物語13 平六代の熊野詣

平六代、父・維盛が亡くなった熊野に

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

建春門院滋子の舞


 平六代(たいらのろくだい、1173年~1199年)は、平維盛の嫡男。平清盛のひ孫。
 平家興隆の基礎を築いた平正盛(たいら の まさもり)から数えて直系の六代目に当たることにちなんで「六代」と名づけられました。

 平六代は平家の都落ちには従わず、母(藤原成親の女)や妹とともに京に隠れ住んでいました。
 壇ノ浦での平家滅亡後、六代は捕らえられ(このとき六代は12歳)、本来なら鎌倉に送られて処刑されるところであったが、六代の乳母に助命嘆願を頼まれた高雄の文覚上人が鎌倉まで頼朝を説得しに行き、六代の身柄は文覚に預けられることとなりました。

 文覚は六代とその母や妹を引き取り、高雄に住まいを用意し、そこに住まわせます。六代の母は六代に出家を勧めますが、文覚は惜しんで出家をさせませんでした。

『平家物語』巻第十二「六代被斬(ろくだいきられ)」より一部現代語訳

 そうこうしているうちに、六代御前(ろくだいごぜん)ようやく14,5歳にもおなりになったので、見目形はいよいよ美しく、辺りも照り輝くばかりである。六代御前の母上はこれをご覧になって、「ああ、私たちの世の中であったなら、今頃は近衛司(※このえのつかさ:近衛府の官人※)になっているだろうに」とおっしゃったのはあまりのことで不穏当な言葉であった。

 鎌倉殿(※源頼朝※)はいつもは六代のことを不安に思われて、高雄の聖(※文覚※)のもとへついでがある度に、「ところで維盛卿の子息はどのような者ですか。昔、頼朝を人相占いして、そうだと判定したように、怨敵をも滅ぼし、昔の恥辱をそそぐ者でしょうか」と尋ね申されたので、聖は返事に「これは底もない臆病者でございますぞ。ご安心ください」と申されたけれども、鎌倉殿はそれでもご納得できない様子で、「誰かが謀反を起こせばすぐにその味方をする聖の御坊である。ただし頼朝が生きている間は誰が謀反を起こすことができようか。しかしながら、私の子孫の代になったら御坊は何をするかわからない」とおっしゃったのはおそろしいことである。

 六代御前の母上はこれをお聞きになって、「出家しなければとてもだめだ。一刻も早くご出家なさい」とおっしゃったので、六代御前16歳と申した文治5年の春の頃に、美しい髪を下ろし、かきの衣(※柿渋で染めた衣、山伏などが着る※)、袴に笈などを用意し、聖にいとまごいをして修行に出られた。斎藤五、斎藤六も同じ姿で出立し、お供申し上げた。

 まず高野へ参り、父の仏門の師である滝口入道(※もと、平重盛に仕えていた武士、斉藤時頼。恋人・横笛への思いを振り切るために出家し、女人禁制の高野山で修業を積み、大円院第8代住職となった。※)を訪ねて会い、父のご出家の次第、臨終のありさまを詳しくお聞きになって、「修行地である一方で父の遺跡であるのにも心がひかれる」といって、熊野にお参りになった。

 浜の宮の御前で父がお渡りになった山成の嶋を見渡して、渡りたく思われたけれども波風が逆でできなかったので、力及ばずお眺めになっていると、「我が父はどこにお沈みになったのか」と、沖より寄せる波にも問いたく思われた。渚の砂も父のお骨であろうかとなつかしく思われたので、涙に袖は濡れ、塩を組む海人の衣ではないけれども、乾く間がないとお見えになる。

 渚に一夜逗留して、念仏を申し経を読んで、指の先で砂に仏の形を書きあらわして、夜が明けてから尊い僧侶を請うて、父の御ためと供養して、作善の功徳をすっかり父の霊魂にめぐらし向けて、亡き父にいとまを申し上げながら、泣く泣く京へ上られた。

その十数年後

 頼朝没後、文覚は土御門通親(つちみかど みちちか:後鳥羽院の院政を支えた公家政治家)を襲撃する計画に関与したとして佐渡国に流され、のち対馬に流されました。
 そして、文覚が庇護者となって一命を救われていた六代も、文覚に連座して処刑されてしまいました。享年27(没年に関しては異説もありますが)。これにより平清盛の嫡流は完全に断絶しました。

 

 

(てつ)

2009.1.14 UP
2020.2.2 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉