み熊野ねっと 熊野の深みへ

blog blog twitter facebook instagam YouTube

熊代繁里『熊野日記』(現代語訳)

熊代繁里『熊野日記』安政6年4月14日(現代語訳)

この日の日記について

 4月14日は熊野本宮大社例大祭・本宮祭の 中日。本宮祭は4月13日から15日にかけて斎行されます。
 14日には船玉大祭と前夜祭が執り行われます。船玉大祭は、航海安全と大漁満足を祈念する漁業・造船関係者の祭典。前夜祭は神職だけの神事。この日記には祭のことは記されていません。

安政6年4月14日(現代語訳)

14日 天気はよい。早朝に起き出て、堤建彦、竹坊良恭、玉置長養(ながもち)、竹村思象(むねかた)、尾崎良暢、高須富足、玉置直寛、壱岐直則、尾崎良福、小中範文、九里(くのり)幸清、竹内高穂、渕上一作、丸山隆尚、[1]等のもとに行って、明後日に帰る予定であることを言って、いとまを告げて帰った。渕上一作は同じ人に付いて中国の書物を読んだ友であったが、別れて30年を経て、このたび対面したのも生きていたからできたことである、など思いを歌に詠むにまかせて、

 いれひものおなじまなびのはらからぞむかしながらにむすびてよみき
(訳:入れ紐が同じ学びの同胞であることだ。昔ながらに結んで読んだ)

と詠んで書きやった。丸山仲の昔から良し悪しを見分けてよといってよこした書どもを見る。未の時(14時頃)あたりに九里幸清が来て、歌を書いてとねんごろに頼み求めたので、かの書を今日のうちに見終えようと心が焦っていらだったけれども、断ろうとして断れずに書いた。しばらく語らったが、良福から迎えの人をよこしたので、調度を取りしたため、有馬へと旅住まいを移すと、三名部からも迎えの男が来た。範文、富雄、光国[2]らがかわるがわる訪ねてきた。日が暮れて丸山仲が訪ねてきて、音楽のことどもを時が経つまで語らってのち、いっしょに御神輿の御旅所というところに参り、そこから良暢の家に肥後人らが集まって音楽の予行演習をするというので、聴きに行ったが今宵はないとのことで虚しく帰った。

注記

1. 歌道の門人1

 熊代繁里の歌道の門人は約300人。

 門人録によると、玉置長養は本宮の神職、竹村思象は本宮の医師、尾崎良暢は本宮の神職、高須富足、玉置直寛は本宮の社家、尾崎良福は本宮の神職、小中範文は本宮の神職、九里幸清は本宮の社家、竹内高穂は本宮の神職。

 堤建彦、竹坊良恭、壱岐直則、渕上一作、丸山隆尚は門人録には名が見えません。 渕上一作は学友。

2. 歌道の門人2

 範文は注記1にある小中範文、本宮の神職。富雄は高須富雄、本宮の社家。光国は坂本光国、本宮の神職。

back next

(てつ)

2023.4.7 UP

参考文献