■ 熊野の説話 |
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◆ しんとく丸 |
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人の多く集まる社寺の前など街頭で、庶民相手に仏の教えを広めるために語られた物語、説経。 室町時代に入ると、「小栗判官」「刈萱」「山椒太夫」「しんとく丸」「愛護若」のいわゆる五説経があらわれます。 河内国の高安(今の大阪府八尾市市内)の信吉長者は金持ちで何の不足もなかったが、前世での悪行の報いで子宝にだけは恵まれなかった。そこで、 信吉長者夫婦は京都東山の清水寺に参り、観音に申し子して、子を授かった。 生まれた男の子は、「しんとく丸」と名づけられた(信徳丸・真徳丸・新徳丸などの字をあてる本がある。同じ題材の謡曲『弱法師(よろぼうし)』には俊徳丸とあり、「しん」は「俊」から転じたとの説もある)。 信貴の寺で一番の学者となり、河内国高安に戻ってきたしんとく丸は、天王寺の聖霊会(しょうりょうえ。陰暦2月22日、聖徳太子の命日に営まれる法会)で稚児舞を舞うこととなり、その折、客席にいた和泉国近木の庄(こぎのしょう。今の大阪府貝塚市北西部)の蔭山長者の娘・乙姫に一目惚れ。 信吉長者の家来の働きで文を取り交わして結婚の約束を取りつける。しんとく丸は大喜びだったが、そんなとき、しんとく丸の母が亡くなってしまう。しんとく丸は持仏堂にこもり、母の菩提を弔う。 信吉長者はまもなく新しい奥方を迎え、新しい奥方はじきに男の子をもうけた。新しい奥方は、しんとく丸がいるために我が子を信吉長者の跡継ぎにできないのが口惜しく、都に赴き、都中の寺社を駆け巡り、136本もの呪いの釘を打ち込んで、しんとく丸に呪いをかけた。 ここから少し現代語訳を。 清水の御本尊は、氏子が不憫だとお思いになり、しんとく丸の枕元にお立ちになり、 しんとくは夢から覚め、 また、清水の御本尊が虚空よりお告げになって、 お通りになったのはどこどこぞ。阿倍野五十町をはや過ぎて、先をどこかとお問いになる。住吉四社明神はや過ぎて、先をどこかとお問いになる。堺の浜はこれのことか。石津畷(大阪府堺市石津町)を通るとき、西をはるかに眺めると、大網を下ろす音がする、目ごとにものを思うだろうか。大鳥(堺市鳳町)、信太(和泉市北西部。和泉市王子町、葛の葉町付近)をはや過ぎて、井の口千軒はこれのことか。近木の庄で有名な地蔵堂にてお休みなさると、また清水の御本尊が旅の道者に身を変えて、しんとく丸に近づいて、 しんとくはこれをお聞きになり、ならば施行を受けようとお急ぎになるが、以前、手紙で約束なされた乙姫の館とは夢にも御存じなくて、堀の橋を渡り、大広庭につっと立ち、「熊野に通う病者にお布施ください」とお乞いになる。 「病いは様々に多いけれど、目の見えないのが辛い。目が見えないからこそ、かきたくない恥をかいてしまうことだ。たとえ病い本復したとしても、この恥をどこの浦にてすすぐことができるのか。天王寺へ戻り、人が食事をくださるとも、はったと食事を絶って、飢え死にしよう」とお思いになって、近木の庄より戻り、天王寺引声堂(いせんどう)の縁の下へ入って、飢え死にしようとお思いになった、しんとく丸の心の中は、哀れともなかなか、何かに譬えようもない。 現代語訳終わり。結局、しんとく丸は熊野には詣でないのです。 乙姫は、しんとく丸が病人乞食になったのを知り、文を取り交わしただけのそれでも夫と決めたしんとく丸を想い、巡礼姿に身をやつし、しんとく丸の消息を求めて旅に出る。 乙姫はしんとく丸を連れて清水寺に詣で、観音に病いの平癒の祈願をしたところ、観音の夢告により平癒の方を得る。それにより病いは回復し、しんとく丸はもとの姿に戻った。 一方、しんとく丸の父の信吉長者はしんとく丸を捨ててから後、目が潰れ、身代も潰してしまった。河内国にいたたまれなくなった信吉長者は奥方と子を連れて丹波の国に流れた。 しんとく丸と乙姫の夫婦は京より和泉国近木の庄に向かい、乙姫の両親と喜びの対面。 というのが「しんとく丸」のあらすじです。 しんとく丸が稚児舞をし、乙姫を見初め、病いとなって捨てられ、そして乙姫と巡り会った四天王寺。 熊野は盲人やライ病者をも回復させることができる強力な浄化力をもつ場所だと考えられ、多くの盲人やライ病者たちが治癒の奇跡を求めて熊野を詣でましたが、その熊野詣の道筋に四天王寺はあります。 四天王寺の南門には熊野権現礼拝石が建ち、そこから、はるか南方にある熊野権現を遥拝し、熊野権現の加護を祈願したといいます。 (てつ) 2003.5.15 UP ◆ 参考文献
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