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新古今和歌集

新古今和歌集の熊野関連の歌

 『新古今和歌集』は、鎌倉時代の初めに、後鳥羽上皇の下命により編纂された勅撰第八歌集です。
 後鳥羽上皇も熱心な熊野信者でした。熊野御幸の回数は28回。
 最多の熊野御幸の回数を誇る後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに28回。
 往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペースで行いました。

 建仁元年(1201)の後鳥羽院4回目の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記していますが、それによると、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智の9ケ所で和歌の会が催されています。

 この熊野御幸は10月5日に出発し、26日に帰京していますが、この年の7月には後鳥羽上皇は和歌所を設置しており、和歌所寄人には左大臣藤原良経(よしつね)・内大臣源通親(みちちか)・天台座主慈円・釈阿入道(俗名藤原俊成)・源通具(みちとも)・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・源具親(ともちか)・寂連の11名を任命しています(のちに藤原隆信、鴨長明、藤原秀能の3名を追加)。

 そして熊野から帰京して、10日も経たない11月3日には『新古今和歌集』の撰を源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂連(途中没)の6人に命じています。この6人の撰者のうち、藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂連の4人の名が、現存する熊野懐紙(くまのかいし)に見えます。
 熊野懐紙とは、熊野御幸のとき催された歌会の折に歌人が自分の詠んだ歌を書いて差出した和歌懐紙のことで、現存するのは30数葉。鎌倉初期の筆者を断定できる仮名筆跡としてとても貴重なものです。

 『新古今和歌集』は4年後の元久2年(1205)に成立しましたが、その後も後鳥羽院はひとりで「切継(きりつぎ)」と呼ばれる改訂作業を続け、建保4年(1216)に一応の完成を見ました。
 その後、承久の乱(1221)に敗れ、後鳥羽院は出家させられて隠岐に流されますが、その際、『新古今和歌集』の関係資料一式を隠岐に持ち出して、配流地で再度の改訂作業を始めました。隠岐での18年の改訂作業ののち、完成させたのがいわゆる『隠岐本新古今和歌集』です。

『古今和歌集』中最多の地名が「熊野」

 さて、岩波書店の新日本古典文学大系11『新古今和歌集』から熊野に関連する歌を探してみると、かなりありました。
 詞書、左注まで含めて「熊野」の語が登場するのは19ケ所で、『新古今和歌集』に登場する地名としては最多です。ちなみに2位は「みちのく」の16ケ所(「みちのく」は、今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部)。
 ひとつの詞書に2首の歌が並べられた箇所があったり、詞書と歌の本文の両方に「熊野」があったりで、歌の数でいうと、「熊野」に関連する歌は18首。ちなみに「みちのく」に関連する歌の数も18首でした。

 熊野御幸にお供した歌人たちによって選歌がなされ、28回もの熊野御幸をなした後鳥羽院によって改訂された歌集ですから、当然といえば当然ですが、「熊野」が集中最多の地名であるというのは、やはり熊野に住む者として嬉しいことです。それではご紹介していきます。

「熊野」18首

1.まず最初に「熊野」が登場するのは、やはり後鳥羽上皇の歌

   熊野にまゐり侍りしに、旅の心を/太上天皇

見るまゝに山風あらくしぐるめり都もいまや夜寒(よさむ)なるらむ

(巻第十 羇旅歌 989)

(訳)見る見るうちに山風は荒く吹き、時雨れてくるようだ。都も今頃は夜寒であるのだろうか。「夜寒」は秋になって夜の寒さが感じられること。またはその寒さ、あるいはその季節。

2.三十六歌仙のひとり、古今時代の女流歌人、伊勢の歌

   題しらず/伊勢

熊野の浦よりをちにこぐ舟のわれをばよそにへだてつるかな

(巻第十一 恋歌一 1048)

(訳)熊野の浦から遠く漕ぎゆく舟のように、あなたは私を遠くに隔てたのですね。
 み熊野の浦は紀伊国の歌枕。

3~4.後鳥羽院の北面の武士で和歌所寄人のひとり、藤原秀能(ひでよしor ひでとう)の歌2首

   熊野に詣で侍(はべり)し時たてまつりし歌の中に/秀能

奥山の木の葉のおつる秋風にたえだえ峰の雲ぞのこれる

(巻第十六 雑歌上 1524)

(訳)奥山の木の葉が落ちる秋風に絶え絶えながらも残っているのはとぎれとぎれの峰の雲ばかりである。
隠岐での除棄歌。

月すめばよもの浮雲空にきえてみ山がくれにゆくあらしかな

(秀能 巻第十六 雑歌上 1525)

(訳)月が澄むと四方の浮き雲は空に消えて深山に隠れて嵐が去ってゆく。

5.和歌所寄人のひとり、源具親(ともちか)の歌

  熊野に詣で侍(はべり)しついでに、切目宿にて、海辺ノ眺望といへる心を、をのこどもつかうまつりしに/具親

ながめよと思はでしもや帰るらん月まつ浪の海人(あま)の釣(つり)

(巻第十六 雑歌上 1559)

(訳)眺めてくれと思っているわけでもなくて帰ってくるのだろうか。月の出を待っている波の上の海人の釣舟は。
 正治二年(1200)十二月三日、切目王子和歌会。現存するこの歌の熊野懐紙には「海辺晩望」。

6.熊野三山検校でもあった大僧正行尊の歌

   都を出でて久しく修行し侍りけるに、問ふべき人の問はず侍りければ、熊野よりつかはしける/大僧正行尊

わくらばになどかは人の問はざらむ を〈お〉となし河に住む身なりとも

(巻第十七 雑歌中 1662)

(訳)どうしてたまには便りをくれないのだろう。いくら私が音無川の近くに住む身であるとしても。
 「おとなし」は「音無川」と音信が無いの意の「音なし」の掛詞。音無川は紀伊国の歌枕。

 音無川は熊野本宮のそばで熊野川に合流する川。明治22年(1889年)8月の水害時まで本宮は熊野川と音無川の合流点にある中州にありました。
 精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。そのため、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、その名を知られた川でした。

7.中古三十六歌仙のひとり、安法(あんぽう)法師の歌

  あひ知れりける人の熊野に籠り侍りけるにつかはしける/安法法師

世をそむく山のみなみの松風に苔の衣や夜寒なるらん

(巻第十七 雑歌中 1663)

(訳)世を遁れてあなたが籠っている熊野の南は松風が吹き、僧衣では秋もふけたこの頃の夜は寒いことでしょう。
 山の南は那智のことか。那智山のことを「み熊野の南の山」と言った。苔の衣は僧衣。苔は山・松の縁語。

8.大僧正行尊の歌2首め

   熊野へまゐりて大峯へ入らむとて、年ごろ養ひたてて侍りける乳母(めのと)の許につかはしける/大僧正行尊

あはれとてはぐくみ立てしいにしへは世をそむけとも思はざりけん

(巻第十八 雑歌下 1813)

(訳)私を可愛がって育ててくれたその昔は、出家遁世するようにとは思いもしなかったでしょう。

9.『新古今集』に集中最多の94首が入集している西行法師の歌

   寂蓮、人々勧めて百首歌よませ侍りけるに、いなび侍りて熊野に詣でける道にて、夢に、なにごとも衰へゆけど、この道こそ世の末に変(かは)らぬものはあれ、なほこの歌よむべきよし、別当湛快(たんかい)、三位俊成に申すと見侍て、おどろきながらこの歌をいそぎよみ出(い)だしてつかはしける奥に書き付け侍ける/西行法師

末の世もこのなさけのみ変はらずと見し夢なくはよそに聞かまし

(巻第十八 雑歌下 1844)

(訳)寂蓮が人々に勧めて百首詠ませておりましたのに、断って熊野に詣でたその道中に、夢で、「何事も衰えゆくが、歌の道は世の末にも変わらないものである。ぜひこの百首を詠みなさい」ということを熊野別当湛快が三位俊成(西行の親友)に申し上げるのを見て、驚きながら急ぎ詠んだ歌。
 末法の世でもこの「もののあわれ」の道だけは変わらないと見た夢がなければ、百首の歌の勧めも他人事のように聞いていたことでしょう。

10.春日明神の神詠歌

人しれずいまやいまやとちはやぶる神さぶるまで君をこそまて

   この歌は、待賢門院の堀河、山との方(かた)より熊野へ詣でけるに、春日へまゐるべきよしの夢を見たりけれど、後(のち)にまゐらんと思ひて、まかり過ぎにけるを、帰り侍りけるに、託宣し給ひけるとなん

(巻第十九 神祇歌 1858)

(訳)人知れず、今か今かと思い続けて、神らしい年老いた姿になるまであなたを待ったのだよ。
 「ちはやぶる」は「神」の枕詞。「山と」は大和。
 人ではなく神様が詠んだ歌。高名な歌人堀河の参詣を春日明神が求めた神詠。堀河の返歌は「三笠山さしもあらじと思ひしを天下りぬる今日こそは知れ」(続詞花集)
 隠岐での除棄歌。

11.熊野権現の神詠歌

道とほしほどもはるかにへだたれり思ひおこせよわれも忘れじ

   この歌は、陸奥に住みける人の、熊野へ三年詣でんと願を立ててままゐり侍りけるが、いみじうくるしかりければ、いまふたゝびをいかにせんと歎きて、御前(おまへ)に臥したりける夜の夢に見えけるとなん

(巻第十九 神祇歌 1859)

(訳)陸奥から熊野への道は遠い。距離もはるかに隔たっている。参詣しなくてもよいから、私のこと思い起こして祈願を送ってよこしなさい。私もそなたのことは忘れはしない。
 陸奥の人が熊野権現の社前に臥した夜の夢のなかで熊野権現から送られたという歌。

12.熊野権現の神詠歌2首め

思ふこと身にあまるまでなる滝のしばしよどむをなに恨むらん

  この歌は、身の沈める事を歎きて、東(あずま)の方(かた)へまからんと思ひ立ちける人、熊野の御前に通夜して侍りける夢に見えけるとぞ

(巻第十九 神祇歌 1860)

(訳)そなたの願うことはこれから身にあまるほどに叶うのに、音を立てて落ちる滝が、ほんのしばしの間、淀むのを、どうして恨んでいるのだろうか。
 身が落ちぶれた人が熊野権現の社前に参籠して夜通し祈願していたときに見た夢のなかで、熊野権現から送られた歌。
 「なる」は「成る」よ「鳴る」の掛言葉。「よどむ」は「滝」のい縁語。

13.生涯に9回の熊野御幸を行った白河院の歌

   熊野へ詣で給ひける時、道に花の盛りなりけるを御覧じて/白河院御歌

さきにほふ花のけしきを見るからに神の心ぞそらにしらるゝ

(巻第十九 雑歌中 1906)

(訳)美しく咲いている桜の花の様子を見るにつけ、神(熊野権現)の御心が空の有り様から推し量ることができるよ。

14.後鳥羽院の歌2首め

   熊野に詣でまゐりてたてまつり侍りし/太上天皇

岩にむす苔ふみならすみ熊野の山のかひある行くすゑもがな

(巻第十九 雑歌中 1907)

(訳)岩に生えている苔を踏みならして熊野の山の峡を行く、それだけの甲斐のある将来であってほしい。
 「かひ」に「峡」と「甲斐」を掛ける。

15.続けて後鳥羽院3首め

   新宮に詣づとて、熊野河にて/太上天皇

熊野河くだす早瀬のみなれざほ(お)さすがみなれぬ波のかよひ路(ぢ)

(巻第十九 雑歌中 1908)

(訳)熊野川を下す船が早瀬にさす水馴棹(みなれざお)は水に慣れているというものの、水に慣れていない私にはやはり見慣れない川波の通い路であることよ。
 熊野川は、本宮から新宮、新宮から本宮への水上の参詣道。川の熊野古道。
 「さす」は「棹」の縁語。「みなれ」は「水馴れ」と「見馴れ」の掛言葉。
 隠岐での除棄歌。

16.徳大寺左大臣と呼ばれた藤原実能(さねよし)の歌

   白河院熊野に詣で給へりける御供の人々、塩屋の王子にて歌よみ侍りけるに/徳大寺左大臣

たちのぼる塩屋のけぶり浦風になびくを神の心ともがな

(巻第十九 雑歌中 1909)

(訳)立ちのぼる塩屋の煙が浦を吹く風になびいている。そのように私の願いが納受されるのが神の御心であったらよいのに。
 塩屋は藻塩を焼く小屋。熊野九十九王子のひとつである塩屋王子を暗示。
 同じ折に詠んだと思われる藤原公教の歌が『千載集』にある。

17.「読み人知らず」の歌

   熊野へ詣で侍りしに、岩代王子に人々の名など書きつけさせて、しばし侍しに、拝殿の長押(なげし)に書きつけて侍し歌/よみ人しらず

いはしろの神はしるらんしるべせよたのむ憂き世の夢の行(ゆ)くすゑ

(巻第十九 雑歌中 1910)

(訳)岩代の神は何のおっしゃらないけれども知っていらっしゃるでしょう。はかない夢のような憂き世の道しるべをなさってください。
 岩代は和歌山県日高郡南部町。「いはしろ」に「言わず」を響かせる。

18.最後はやはり後鳥羽院の歌、4首め

   熊野本宮焼けて、年の内に遷宮侍りしにまゐりて/太上天皇

(ちぎり)あればうれしきかゝるお(を)りにあひぬ忘るな神も行(ゆ)くすゑの空

(巻第十九 雑歌中 1911)

(訳)宿縁があるから、このようなうれしい折に会えたのでしょうね。そのことを私は忘れませんから、神もお忘れにならなずに、私の将来をお守りください。
 本宮が焼けたのは元久3年(1206)2月28日。同年(建永元年)12月に熊野御幸を行った。

 『新古今集』にある「熊野」の語が登場する歌は、以上の18首。最初と最後はきちっと後鳥羽上皇が締めていましたね。さすが後鳥羽上皇の命で編纂され、自ら改訂作業を行って完成させた勅撰和歌集です。
 都にあってただ言葉として「熊野」を使うのではなく、都の歌人たちがはるばると歩いて熊野まで来て、熊野の現地で歌を詠んだという、そのことに感心します。

 川を渡り、山を登り、山を下り、また山を登り、ひたすら歩いていく。
 都の貴族たちにとって熊野への道は本当に難行苦行の道であったことでしょう。
 実際、藤原定家の日記『後鳥羽院熊野御幸記』には泣き言ばかりが書かれています。
 しかし、難行苦行の道のりを歩くからこそ、熊野本宮にたどり着いたときの感激があり、その感激から熊野権現の霊験が生じたのだと思います。
 泣き言ばかりの藤原定家も、本宮にたどり着いたときは「感涙禁じがたし」と感激をあらわにしています。

その他の熊野関連の歌

 「熊野」という語が登場する歌は以上でお仕舞いですが、他にもまだ熊野関連と思える歌はあります。

19.このページ3首めの行尊の歌

   修行し侍りけるころ、春の暮れによみける/大僧正行尊

(こ)のもとのすみかも今はあれぬべし春しくれなばたれか訪(と)ひこん

(巻第二 春歌下 168)

(訳)木の下の住処ももうきっと荒れるであろう。春が暮れてしまったら、誰が訪ねて来ようか。

 どこで詠まれた歌なのかはわかりませんが、これには本歌取りの歌で、本歌は花山法皇が那智の山中で詠んだ「木(こ)のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」(『詞花集』巻第九 雑上 276)ですので、熊野絡みということでご紹介しました。

20.『新古今集』の撰者のひとり、藤原定家の歌

   百首歌たてまつりし時/定家朝臣

(こま)とめて袖うちはらふかげもなし さののわたりの雪の夕暮(ゆふぐれ)

(巻第六 671)

(訳)駒をとめて袖に積もる雪を振り払う物陰もない。さのの渡し場の雪の夕暮れよ。

 「さの」という熊野のとある場所が登場します。
 『万葉集』の長忌寸意吉麻呂の「苦しくも降り来る雨か 三輪の崎 狭野の渡りに家もあらなくに」を本歌とした歌。
 定家はこの歌を空想で詠んだのでしょう。美しいイメージは浮かぶのですけれど、本歌のもつ臨場感がないような気がします。長忌寸意吉麻呂の歌のほうがはるかに人の心に訴えてくるものがあるように思います。
 「さの」を大和国の歌枕とする説もありますが、本歌のある『万葉集』で考えてみると、和歌山県新宮市佐野のほうがふさわしく思えるので、熊野の歌として取り上げました。

21.行尊の歌、4首め

   修行(すぎやう)に出(い)で侍りけるによめる/大僧正行尊

思へども定めなき世のはかなさにいつを待てともえこそ頼めね

(巻第九 離別歌 879)

(訳)帰りを待っていてほしいと思うけれども、無常の世は果敢ないものなので、いつの日を待ってくれとも約束することはできないのだよ。

 家集のこの歌の詞書には「五月晦ごろに熊野へ参り侍りしに、羽束(はつかし)といふ所にて、千手丸が送りて侍りしに」とあります。熊野へ行く途中、羽束師(京都市伏見区羽束師志水町の羽束師神社)まで送って来てくれた稚児「千手丸」に与えた歌です。

22.行尊の歌、5首め

   いそのへちの方に修行し侍けるに、ひとり具したりける同行を尋ね失ひて、もとの岩屋の方へ帰るとて、あま人の見えけるに、修行者見えばこれを取らせよとて、よみ侍ける/大僧正行尊

わがごとくわれをたづねばあま小(を)舟 人もなぎさの跡とこたへよ

(巻第十 羇旅歌 917)

(訳)私がこうして尋ねたように、同行の者が私のことを尋ねたなら、漁師さんよ、渚にはもういないよ、私はもう行ってしまったあとだよと答えてくれ。

 「いそのへち」は、海岸伝いの修行の道。ここでは熊野参詣道の大辺路のことだと思われます。「あま小舟」は漁師の乗る小さな舟のこと。「なぎさ」は、「渚」と人も「無き」の掛詞。

23.行尊の歌、6首め

   題しらず/大僧正行尊

くり返しわが身のとがを求むれば君もなき世にめぐるなりけり

(巻第十七 雑歌下 1742)

(訳)何度も繰り返し我が身の罪業を探し求めると、それは君の亡くなった世にいつまでも生き長らえていることであった。

 家集によると、熊野の社前で詠んだ歌。「君もなき世」の「君」が誰なのかは不明。1085年に15歳で没した実仁親王(白河天皇の東宮。行尊の甥にあたる)か、1107年没の堀河天皇か、1129年没の白河院か。

 さすがに熊野三山検校でもあった行尊です。6首もの熊野関連の歌が採られています。

 ※ ※ ※ ※ ※

 『後拾遺和歌集』から見つけられた熊野関連の歌は以上の23首。もし他にもありましたらご教示ください。

勅撰和歌集とは

 天皇や上皇の命令によりまとめられた和歌集のことをいいます。
 10世紀初めに成立した最初の『古今和歌集』から15世紀前半の『新続古今和歌集』まで21集があります。順に並べると下記の通り。

  1. 古今和歌集 (醍醐天皇)
  2. 後撰和歌集 (村上天皇)
  3. 拾遺和歌集 (花山院
  4. 後拾遺和歌集 (白河天皇
  5. 金葉和歌集 (白河院
  6. 詞花和歌集 (崇徳院
  7. 千載和歌集後白河院
  8. 新古今和歌集 (後鳥羽院
  9. 新勅撰和歌集(後堀河天皇)
  10. 続後撰和歌集 (後嵯峨院
  11. 続古今和歌集後嵯峨院
  12. 続拾遺和歌集 (亀山院)
  13. 新後撰和歌集 (後宇多院)
  14. 玉葉和歌集(伏見院)
  15. 続千載和歌集 (後宇多院)
  16. 続後拾遺和歌集 (後醍醐天皇)
  17. 風雅和歌集 (花園院)
  18. 新千載和歌集 (後光厳院)
  19. 新拾遺和歌集 (後光厳院)
  20. 新後拾遺和歌集 (後円融院)
  21. 新続古今和歌集 (後花園天皇)

 1~3を三代集、1~8を八代集、9~21を十三代集、全部をまとめて二十一代集といいます。

(てつ)

2003.3.10 UP
2020.4.20 更新

参考文献