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剣巻(つるぎのまき)現代語訳5 源義朝、頼朝

剣巻 現代語訳5

1 源満仲 2 源頼光 3 源頼基、頼義、義家 4 源為義 5 源義朝、頼朝 
6 源義経
 7 三種の神器 8 天叢雲剣 9 源頼朝のもとへ

 源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻』を現代語訳。

源義朝

元平治合戦源義朝白河殿夜討之図.jpg
元平治合戦源義朝白河殿夜討之図 歌川芳虎 - 東京都立図書館, CC0, リンクによる

その後、為義は「私は年をとった。今は剣を持って何ができるだろうか」と言って、かの友切・小烏、二つの剣を嫡子・下野守義朝に譲られた。そうこうしているうちに保元の合戦が起こった。義朝は内裏(後白河天皇)へ召され、為義は院(崇徳上皇)の御所へ召された。為義は子ども6人を伴って院の御所へ参った。

保元元年7月11日寅の刻(午前3時から5時の間)に戦が始まって、辰の刻(午前7時から9時の間)には戦は終わった。ただ三刻で戦は終わって新院がお負けになられた。そのとき為義は天台山に馳せ登り、出家し、義法房と名付けた。子なのでよもや見放しもすまいとと思い、義朝の許へ下りったけれども、朝敵なので助命も叶はず、そのまま義朝が承って父を切ったのは無残であった。

義朝は保元の勧賞で左馬頭になった。弟6人が新院に召し出だされて、5人は切られた。為朝1人は落ち延びたが、程を経て九州田根という所より召し出だされて、伊豆国へ流され、終にはこれも斬られてしまった。為朝の子ども4人も斬られた。

源頼朝

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絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵) 藤原隆信 - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

義朝だけが残ったけれども、平治元年に悪右衛門督信頼に語らわれて謀反を起し、子どもを多く持っていたけれども、右兵衛佐頼朝といって13歳になっていた三男を末代の大将とご覧になっていたのだろうか、ことに寵愛され、生絹という鎧を着せ、友切という剣を帯かせ、先にうち立てた。

しかしながら朝敵であるためか戦に負けて、義朝は都を落ちて西近江比良という所に留まって、終夜八幡大菩薩を恨み奉った。「昔はこの剣を以て敵を攻めれば、靡かぬ木草もなかったのに、世の末になって剣の精も失せたのだろうか。大菩薩も見捨てになられたのか。これほどに戦にもろく負けるとは思いませんでした。義朝の祖父・義家は八幡大菩薩の御子として八幡太郎と名を得たのだから七代までは見捨てられまいと思っていた。義朝までまだ3代なのに」

まどろんで見た夢に「我は汝を棄てたのではない。汝の持つ友切という剣は、満仲のときににわかに与えた剣である。鬚切・膝丸という初めのままであれば、剣の用も失くさなかったものを、次第に名を付け替えることで、剣の精も弱くなった。ことさら友切という名を付けられて、敵を随えずして友切りとなったのだ。保元に為義が斬られ、子どもがみな滅ぼされたのも、友切という名の故である。今般戦に負けたのも友切という剣の名の科なので、全く我を恨むな。昔の名に返したならば末は頼みもあるだろう」とはっきりと御示現あったので、義朝は目覚めてまことに浅ましく思われた。

「このことを承るに、悪しく名を付けられためであったのか。それでは名を昔に返そう」とて、「鬚切」となされた。さて比良を立って高島を通ったときに、頼朝が馬上で居眠りをして父に遅れてしまった。その辺の者ども70~80人が馳せ合わせて頼朝を生け捕ろうとしたところ、頼朝は驚いて鬚切を抜いて打ち払ったので、疵を被る者もあり、また死する者も多かった。鬚切に名を戻した験であると思われた。

その夜は塩津庄司の許に宿して、夜半頃に道案内を得て東江州へ移った。藤川、不破の関も塞がって、京より討手が下ると聞こえたので、義朝は雪の山に分け入った。頼朝は幼き身なので大雪を分け難くて山口に留まった。悪源太(あくげんた:源義平。源義朝の長男)はひとり離れて飛騨国へ落ちた。義朝は朝長ばかりを伴って、美濃国青墓の遊君の許に留まって、浦伝いして尾張国野間の内海の住人・長田庄司忠致(おさだ しょうじ ただむね)の宅を宿にして、平治2年正月1日の早朝に主従2人とも討たれた。忠致は義朝の郎従・鎌田正清の舅である。相伝の主と婿とを討って世にあろうと思うのは情けないことだ。忠致は主従2人の首と、小烏という太刀とを都に上せ、平家の見参に入れた。

兵衛佐頼朝は、山口に棄てられていたが、東近江草野庄司という者に扶けられ、天井に隠れていたが、頼朝は幼いけれども賢い人であったので、よくよく考えたのは、「私が隠れていても早晩見つかるだろう。身は果てるとも、源氏重代の剣を平家に取られるのは辛いことだ。どうやって隠そうか」と思いつつ、庄司に語って、「この日来養われ奉るのも前世の縁であるのでしょう。今はひたすら親方と頼りにしています。尾張の熱田の大官司は頼朝にとっては母方の祖父です。それまでこの太刀を持って下り、大官司に次のように申し上げてください。頼朝はしかじかの所に深く忍んでいますが、いつまでも逃れることはできません。たとえ頼朝が殺されるとも、この太刀は失うわけにはいかないと思っております。然るべくは、熱田の社に献進して置いてくださいませ」とおっしゃったので、庄司は尾張に下り、大宮司にこの由を申し上げたところ、すぐに宝殿に納めた。

そうこうしているうちに、清盛の弟・三河守頼盛は平治の合戦の勧賞で尾張守になった。そして弥平兵衛宗清が頼盛の目代として下ったが、上洛のときに兵衛佐が隠れていらっしゃるのを聞き付けて、捜し捕らえて上った。兵衛佐はそのまま宗清が預かった。死罪になるはずのところを池尼御前の手に申し請けて、伊豆の北条蛭小島へ流された。21年経て、頼朝が34歳となった治承4年夏の頃、高倉宮の令旨並びに一院の宣旨を賜わって、謀反を発されたとき、熱田の社に籠められていた鬚切を申し出だして佩刀した。そういうわけで頼朝は日本五畿七道をうち従えられた。

 

 

(てつ)

2019.12.10 UP
2019.12.20 更新

参考文献