■ 熊野参詣記

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◆ 『熊野道中記』(現代語訳7)新宮〜浜の宮


 『南紀徳川史』に収められている「熊野道中記」。

  1. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳1 若山〜湯浅
  2. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳2 湯浅〜印南
  3. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳3 印南〜芝村
  4. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳4 芝村〜伏拝
  5. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳5 伏拝〜本宮
  6. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳6 下り船
  7. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳7 新宮〜浜の宮
  8. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳8 浜の宮〜那智〜湯の峰
  9. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳9 浜の宮〜田辺
  10. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳10 新宮〜伊勢道
  11. 鳥居源之丞『熊野道中記』現代語訳11 熊野御幸定家記所載王子,果無越

 これは誤記かもと思う箇所は訂正しています。また訳せなかった箇所などもあります。お気づきの点などございましたら、ぜひご教示ください。ご教示を受けながら徐々によい訳文にしていきたいと考えています。メールフォームはこちら

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新宮より 三輪崎まで1里半 イに1里

  新の山御旅所 本社の西北5町ばかりにある。

神代巻神武本記を考えるに、本宮は伊弉冉尊を祭るに決まっている。古今皇代図に崇神天皇65年熊野本宮が初めて建つとある。新宮は十二宮の早玉男を本社とする。草創は神武天皇49年戊午六月である。那智は事解男を祭る。仁徳天皇御宇に建てると申し伝えている。

神武帝より代々の帝の熊野行幸の道筋は御舟にて勝浦の渡りに到り神の村の天津社国津社の十二宮に礼社がある。それより有馬村の花の窟に伊弉冉の陵を拝し給ひ、板屋越という所を音無宮出大和国にお帰りになられたのだ。花窟は今に至て新宮の末社である。

   新の山御旅所 本社の西北5町ばかりにある。

   飛鳥社  新宮町はずれより10町余り上、熊野村にある事解男命を祭る。
        また一説に本社は速玉男、東の一社は高倉下という。

   徐福社  飛鳥社の境内。イに明日木という。里の人はたまの木という。

   宮戸社  飛鳥より2町ほど、脇川辺にある。俗に蓬莱山という。
        泉守道神であると、ここが泉津平坂標示であるという。

   頭八咫祠 新宮城の要害の藪の中にある。

   牛鼻神祠 新宮川の向かいにある。本社より8町。
        千翁命を祭ると伝えいう。

南紀古士伝えて曰神武帝征南方賊虜軍到荒坂山又陣秋津野日久糧絶熊野邑有人名千翁命献稻一千束帝賞之賜姓穂積臣生三子鈴木宇井榎本がこれである。謂之熊野三苗後爲權現社司矣千翁命者賀茂臣祖建祇命之兄而熊野邑の神祠である。今の牛鼻明神。熊野の氏神三苗の祖神である。建祇命は加茂氏の祖である。

   行家の家地 宮戸より浜の王子への道の左。
         新宮十郎が(熊野に隠れ籠っているのを)高倉宮の使節を仰せ
         含められ藏人になされ行家と改めることが盛衰記に見える。

   玉の井橋 同じ道筋にある。

   浜王子社 宮戸社より10町ばかり。
        海辺松原の内社の東南に頓宮の跡がある。

   神倉   新宮の鳥居より15町。
        熊野地主高倉下を祭るのだ。天照大神をも合わせ祭る。

    続古今  熊野に詣て侍ける時かんくらにて太政大臣一位
          きはめぬる事をおもひつづけてよみ侍りける
       三熊野の神くら山の石たゝみのぼりはてても猶いのるかな

(訳)み熊野の神倉山の石畳を登り終えてもまだ祈るのだ。

       イに神倉山申の刻より登らない所である。右に庚申堂ある。
        続きに尼寺がある。妙心寺という。当時京都宮家より住職。
       (鳥居左に山伏がある。額に熊野根本神蔵大権現。
        坂は険しい。右に地藏堂がある。
        祭礼正月16日夜。大黒天が左の谷にある)

   水伝磯  新宮川の下にある。浦人は水つき磯という。
        新宮川を渡り成川という所へ出る。
        それより奥熊野街道勢州田丸へ出るのだ。
        那智山へ出るには三輪崎へ行くのだ。

三輪崎より 宇久井まで半里 イに1里

    万葉 三輪の崎あり磯も見へず波たちぬいづこゆ行かんよき道はなしに

(訳)三輪の崎の荒磯も見えないくらいに波が立ってきた。どこを通って行こうか、避けて通る道もないのに。

    夫木 三輪崎夕汐させばむら千鳥佐野のわたりに声うつるなり

(訳)三輪崎夕潮がさすと群がる千鳥の声が佐野の辺に移る。

  御手洗  三輪崎より5町ほど前。坂の峠の道の左の海辺。

  上野明神 三輪崎浦入口より前。道の右の山手。

  鈴島  孔子島 荒坂山
    ここの浜より下、いにしえ泊浦といった所まで七里の御浜をいう。
    7里の間、船着き場がない。荒い所である。

  佐野山  三輪崎村より佐野村へ付いている道の右の山である。
    万葉 佐野山にうつやをのとのとをうともねもとゝころかおゆに見えつる

(訳)佐野山

  佐野の岡 三輪村はずれより右の山の原をいう。
    続古今 佐野の岡越行人の衣手にくたき朝けの雪は降つゝ 光明峰入道

(訳)佐野の岡を越えて行く人の着物の裾に 夜明けの雪は降っている。

    玉葉 秋風の寒きあしたに佐野の岡こゆらん君にきぬかさましを

(訳)秋風の寒い朝に佐野の岡を越える君に着物を貸したいものだ。

 佐野村   佐野の松原 佐野村往還の左右にある。
    日本記に神武帝軍名草邑に至り遂に狹野を越え熊野神邑に到る云々。

    夫木 駒なつむさのゝ朝けに見渡せは松原遠く降れる白雪 隆輔

(訳)

    拾遺愚草 冬の日をあられふりはへ朝たては浪に波こすさのゝ月影

(訳)

  王子   佐野村の松原はずれ道の右。

  高根の松 宇久井村より1町ほど前。
       道の左、高根島の磯際の岩の上にある。

  大夫松  宇久井村より1町ほど前、道の右。
       平維盛が入水の時裝束を脱ぎこの松に掛け置いたと相伝える。

  目覚山  同村より前左の方、海中にある。相伝える文覚の歌に
         目覚山おろす嵐のはげしくて高根の松もねいらざりけり

(訳)目覚山をおろす嵐のがはげしくて高根の松も寝入ることができなかったであろう。

  鳴耶浜  同村領大公事坂左の浜をいう。
     松葉 なくさまぬなをたつ人は夜と共にねをうなくやの浜のまにく 

(訳)なく

宇久井より 浜宮まで1里半 イに1里

    小ぐし坂は下りが険しい。

  太地崎  大公事坂崎より左の方に遠く見える。

  赤色浜  同坂より10町ほど先の道の左の海浜をいう。
       ここの沖にて平維盛が入水したと相伝える。

  丹敷浦  赤色浜と同じ所の海辺をいう。
    日本記に神武帝帥軍進熊野荒坂津に到りそこで丹敷戸畔という者を誅す。
    注に荒坂津またの名を丹敷浦。

  山成島  大公事坂より濱の宮村への道より左に遠く見ゆ

平家物語維盛浜宮王子前より舟に棹さして遙の沖に山成の島という所あって船を漕ぎ寄せて崖に上り松の木を削って名字を書き付ると云々。
維盛は赤池浜にて入水と偽り、ここに上がって後、色川郷の大野村に隠ると相伝えていう。

  大勝浦  同じ辺   綱切島 同じ辺

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(てつ)

2011.2.23 UP

 ◆ 参考サイト

ゆーちゃん(百姓生活と素人の郷土史)
 熊野道中記
  他にも熊野関連の資料の電子テキストがあります。

 
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