世界的博物学者、南方熊楠の旧邸
南方熊楠が1916年(大正5年)以降1941年(昭和16年)に永眠するまで終の住まいとした邸が現在も田辺市中屋敷町に保存されています。
約400坪の敷地には2階建ての母屋があり、土蔵があり、貸家2軒などがありましたが、熊楠は前の借家に自分の設計で建てた「博物標本室」を移築し、書斎としました。
現在の南方熊楠邸には、貸家2軒はなく、代わりに熊楠没後に建てられた2階建ての別棟がありますが、母屋と土蔵と書斎は熊楠が利用したものが保存されています。
書斎には熊楠が愛用した机が置かれていました。この机は、高すぎて読書するのに不便だったので手前の2本の足を短く切ったのだそうです。
熊楠はこの書斎で隠花植物(菌類、地衣類、藻類、蘚苔類)や粘菌などの標本を作り、菌類の彩色図を描き、英語で論文などを書き、日本語で書簡などを書きました。
今の書斎はきちんと整とんされていますが、熊楠が使用していたときは顕微鏡やら書籍やら書きかけの原稿やらで自分が坐る場所以外は足の踏み場もないほどに散らかっていたそうです。
土蔵は2階に分かれていて、1階は書庫として使われ、数万点もの文献や抜書などが中性紙に包まれて収められています。2階は動植物の標本室として使われました。
文章を書くとき、熊楠は文献を取りに、書斎と土蔵の書庫とを何度も行き来したそうです。
2階の標本室にあった隠花植物標本や彩色図は現在、茨城県つくば市の国立科学博物館筑波実験植物園の標本庫に収められています。
邸内にはクスノキや安藤みかん、柿、センダンなどの木が生え、庭が熊楠の植物研究の場所であったことが想像されます。
熊楠存命時の庭には、菌類や粘菌を生やすために、いくつもの種類の朽ち木が山と積まれ、落ち葉は積もるがままにされていたそうです。
邸を購入した翌年(1917年)には邸内の柿の木から新属新種の粘菌を発見しています。のちにイギリスの粘菌学の権威ガブリエル・リスター女史により「ミナカテルラ・ロンギフィラ」と命名され、発表されました。南方の名を付けられた新属新種の粘菌が発見された柿の木はいまだ健在です(右の写真)。
邸内で最も大きな木はクスノキ。
「世が現地に樟(くす)の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熱からず、屋根も台風に損せず、急雨の節、書斎から本宅へ走り往くを援護す」と、自分の名の1字にある木でもあるので、このクスノキには特別の愛着を抱いていました(左の写真中央がクス)。
クスノキの傍には安藤みかんの木が植えられていて、夏みかんのような実を成らせていました(右の写真)。熊楠は安藤みかんの実が成っているときは毎日、搾ってジュースにして飲んでいたそうです。いま生えている安藤みかんの木は熊楠存命時に生えていた木ではなく2代目。熊楠存命時に生えていた数本の安藤みかんは熊楠が亡くなるとその翌年には後を追うようにみなばたばた枯死してしまったそうです。
進講の知らせを受けたときに邸内で花を咲かせていたのはセンダンの木。センダンは別名、樗(オウチ)ともいい、進講の知らせを受けたときの喜びを熊楠は「ありがたき御世に樗(あふち)の花盛り」と詠みました。臨終の床で熊楠は天井いっぱいに咲く紫の花の幻覚を見たそうですが、その紫の花とはセンダンの花であろうといわれています(左の写真中央の葉が目立たない木がセンダン。これも熊楠存命時に生えていた木でなく2代目)。
南方熊楠の著作を読んだことのない方にはぜひ、東京帝国大学農学部教授・白井光太郎に宛てた書簡「神社合祀に関する意見」をお読みになることをお勧めします。
「神社合祀に関する意見」は、平凡社の『南方熊楠全集』に収められている他、河出文庫の『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』にも収められており(中沢新一氏による解題がすばらしい)、また青空文庫には電子テキストもあります。
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南方熊楠顕彰館
南方熊楠について詳しくは南方熊楠のキャラメル箱へ
◆ 参考文献
中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』河出文庫
中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』河出文庫
中沢新一『森のバロック』せりか書房
鶴見和子『南方熊楠』講談社学術文庫
松居竜五・月川和雄・中瀬喜陽・桐本東太=編『南方熊楠を知る事典』講談社現代新書
神坂次郎『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』新潮文庫
『南方熊楠 新文芸読本』河出書房新社
『太陽』1990年11月号 No.352 平凡社
『超人 南方熊楠』朝日新聞社
水木しげる『猫楠 南方熊楠の生涯』角川文庫ソフィア
南方熊楠邸特別公開時にいただいた「しおり」など
(てつ)
2003.5.9 UP
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