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伊弉冉尊(いざなみのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ) 速玉男尊(はやたまのおのみこと) 事解男尊(ことさかのおのみこと) | ||
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1月1日 歳旦祭 1月15日 成人祭 2月上旬 節分祭 2月11日 紀元祭 4月29日 神幸祭 5月16日 例祭 6月30日 水無月・大祓式 8月15日 祖霊祭 11月15日 七・五・三詣 11月23日 天長祭 12月31日 除夜祭 |
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後白河法皇は宮殿に金砂をちりばめられ、楼門、廻廊、祓舎、宝庫等を倶備して、京の三熊野社(新熊野、若王子)の随一であった。応永3年(1396年)12月足利義満公は、広大なる社地を寄進し、その後の地域は北は近衛通りのやや以南より、竹屋町通に至り、更に東は当社の東一丁辺りより、鴨川河原に至る境域であり、そのうち崇徳院大吉祥院の敷地を除いて、まことに壮観を極めたが、応仁の乱以後社頭は陵夷して、いつしか私有地に代わり、大部分は畑地に変り果てた。 明治維新以後の境域は役1800余坪で、その大半は私有地であったが、明治26年丸太町通の従断で境内を貫通し600坪を削減され、更に大正元年市電丸太町線が開通されて400削減、また昭和1年再び東山通の道路拡張の為、200坪は収容されて現在600余坪である。 往古から周辺一帯は聖護院の森と云われ、うっそうたる森林に包まれ、鴨東唯一の歡楽地として四季頻繁をきわめ、積雪の社殿、森林はひときわ白銀に映え、春は紅梅の香りをほころばせ、文人墨客杖をひく者多く、また夏は比叡おろしの冷気に納涼を娯しむ等興を添えるものがあった。 現在の本殿は賀茂御祖神社(下鴨神社)の式年造営後、天保6年(1835年)の再建の時下付された、代表的な流れ造桧皮葺本殿で礎石はすべて白川石材を重積したものであり、屋根檜皮は光格天皇のご寄進によるものである。更に紀州候より土砂、材木を寄進される等、社殿は完備壮麗をきわめた。なかでも弊殿は昭和2年に除却せられ、拝殿を本殿に接続し、前拝所として整備された。また本殿屋根葺替え及部分の補修を行い、大祭を前に昭和34年改修された。 尚旧拝所は寛永6年の建立で保護建造物である。 |
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当社は今から千五百年前、嵯峨天皇の御代の弘仁2年(811年)に、修験道の始祖役行者小角の十世僧日圓が、国家護持のため初めてこの地に紀州熊野大神を勧請して以来、永らく白川熊野社または熊野権現社と云われた。 寛治4年(1090年)白河上皇の勅願により創立された聖護院は、当社を守護神として崇められ、別当職を置いて管理された。そのご後白河法皇は、熊野大神に対するご信仰古今に比類がなく、はるばる紀州より土砂及び樹木を移植されて社頭の整備に力をそそがれた。また承治2年(1178年)11月高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)は、皇子ご安産祈願のため使を遣わされ、無事安徳天皇をご誕生になった。 応仁2年(1468年)の大乱で、この地は戦乱の巷となり、遂に社頭は烏有に帰し、荒廃のあとは僅かに小祠によって奉祀されていた。その後霊元天皇の御代寛文6年(1666年)聖護院宮道寛法親王(御水尾天皇の皇子)は衰徴を嘆かれ、遂に令旨を下して、造営されることになったこの時期うぃ始め、仙洞女御より黄金、白銀のご寄附があったが、規模は軽微にして、往古の姿に及ぶものではなかった。その後天明8年1月(1789年)の大火で皇居は炎上し、光格天皇は3ケ年に亘り聖護院宮雄仁親王(伏見宮貞敬親王)より神宝として、太刀壱振がご寄進され現社宝として残されている。 また嘉永7年4月(1854年)再度の皇居の炎上に遇われた孝明天皇は、聖護院遷御せられ、その後維新の大局に当り、自ら当社の祭事を選ばれてその治安をご祈願になった。慶応2年4月(1866年)の祭日には、勅使を遣わされて、神幸列に警護加えられたことは、官幣社以外にはまことに異例であった。明治維新以後は神仏分離により熊野神社と改称された。 |
Thanks 鈴音さん
2001.12.19 UP
No.111