み熊野ねっと 熊野の深みへ

blog blog twitter facebook instagam YouTube

和泉式部

平安中期の女流歌人・和泉式部

Hyakuninisshu 056.jpg
和泉式部(小倉百人一首より) パブリック・ドメイン, リンク

 熊野古道中辺路を歩き、熊野本宮大社まであと1時間ほどというところまで来た伏拝(ふしおがみ)という場所に伏拝王子(ふしおがみおうじ。王子とは熊野権現の御子神。熊野権現の分身のこと)があります。
 伏拝王子にまつわる伝説として、平安中期の女流歌人、和泉式部(いずみしきぶ。977頃~没年不明。中古三十六歌仙の一人)が登場する次のようなお話があります。

 和泉式部が熊野詣をして、伏拝の付近まで来たとき、にわかに月の障りとなった。これでは本宮参拝もできないと諦め、彼方に見える熊野本宮の森を伏し拝んで、歌を1首、詠んだ。

晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

 すると、その夜、和泉式部の夢に熊野権現が現われて歌を返した。

もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

 そこで、和泉式部はそのまま参詣することができたという。

 歌の功徳によって神仏からご利益を受ける歌徳説話の一種です。

 南北朝から室町時代にかけて、熊野信仰を全国に広めていったのは、神道でも修験道でもなく、一遍上人を開祖とする時衆(じしゅう)という仏教の一派でした。この和泉式部の伝説は、時衆の念仏聖たちが熊野の神は他の神様とはちょっと違うのだということをアピールするために作った物語のひとつなのだと思われます。

 何が違うのかというと、熊野の神は、ハンセン病の患者であろうと、生理中の女性であろうと、およそ「浄不浄をきらはず」、受け入れるということです。いまの女性にとっては納得いかないことかもしれませんが、かつては女性の生理は不浄なものでした。生理中の女性でも受け入れる。そのことを宣伝するために和泉式部をかつぎだして、時衆の念仏聖たちがこのようなお話を作り出したのでしょう。

 実際に和泉式部が熊野を詣でたかは不明ですが、先の歌は『風雅和歌集』に記載されています。またこの他にも熊野に関連する歌はいくつかあります。

和泉式部の熊野関連の歌

『風雅和歌集』より1首

もとよりも塵にまじはる神なれば月の障も何かくるしき

   是は和泉式部熊野へまうでたりけるにさはりにて奉幣かなはざりけるに「晴やらぬ身のうき雲のたなびきて月の障りとなるがかなしき」とよみてねたりける夜の夢につげさせ給ひけるとなむ

(訳)もとより塵に交わる神なので月経もどうして差しさわりがあろうか。

(『風雅和歌集』巻第十九 神祇歌 2109・新2099)

『詞花和歌集』より1首

   おなじ所なるお(を)とこのかき絶えにければよめる

いくかへりつらしと人をみくまのゝうらめしながら恋しかるらん

(訳)同じ所にいる男の訪問が途絶えたので詠んだ歌。繰り返し薄情な人だとあの人のことを見てきたのに、なぜ、恨めしいのと同時に恋しいのでしょうか。

『詞花和歌集』巻第八 恋下 269)

 失恋の歌。自分を振った相手とは同じ所に仕えているので、姿だけはいつも目にしているという状況。
 「みくまの」に「見来」と「み熊野」を掛ける。「うらめし」に「浦」と「恨めし」を掛ける。「いくかえり」は「浦」の縁語。
 この歌の「み熊野」は、「うら」を導くための枕詞的な使われ方をしています。自分を振った相手の姿を目にして恨めしさと恋しさに揺れる心を詠んだ歌です。

『続後撰和歌集』より1首

   いくかさね、といひをこせたる人の返事に

とへと思ふ心ぞ絶えぬ忘るゝをかつみくまのゝ浦の浜ゆふ

(訳)「幾重ね」と言い起こした人の返事に。「訪ねてください」と十重にも深く思う心は絶えることがない。あなたから忘れられているのを一方では知りながらも。

(『続後撰和歌集』巻第十五 恋歌五 947・新938)

 「とへ」に「問へ」と「十重」を掛け、「幾重ね」に応える。

 「み熊野の浦の浜木綿」が「重ね」を起こすための序詞であることから、この歌が作られています。浜木綿は、ハマオモトのこと。海辺に生えるヒガンバナ科の多年草。花が、木綿(ゆう。コウゾの皮の繊維で作った白い布)でできているかのように見えることから浜木綿(はまゆう)というそうです。幾重にも葉が重なっているので、「幾重なる」「百重なる」などを起こす序詞となりました。

和泉式部について

 せっかくですので、ここで「熊野」を離れて和泉式部のことを少しご紹介しておきます。
 和泉式部の歌が、はじめて勅撰集に採られたのは『拾遺和歌集』。この歌です。 

   性空上人のもとに詠みて遣はしける

くらきよりくらき道にぞいりぬべき遥に照らせ山のはの月

(訳) 性空上人のもとに詠んで遣わした歌。私はいま闇の世界を無明の世界に向かって進んでいるような気がします。どうか上人さま、はるか彼方からでも、あの山の端の月のように、私の足下を照らして導いてください。

(巻第二十 哀傷 1342)

 少女時代の作とされますが、罪障深い和泉式部がこの歌によって成仏したというお話も(『古本説話集』、『無名草子』)。宗教的な色合いが撰者の花山法皇(968~1008)の気に召したのか、数多ある和泉式部の歌からこの1首のみ、選ばれています。

 ちなみに、『拾遺和歌集』は、『古今和歌集』『後撰和歌集』に継ぐ第三の勅撰集(1005~1006に成立)で、一条天皇の御代に花山上皇が自らの手で編纂した特異な勅撰集なのです(普通は、天皇が歌人に命じて編纂させます)。

 この『拾遺和歌集』は、『万葉集』も含め、当代までの1351首を収載。紀貫之、柿本人麻呂の作品が圧倒的に多く、ともに100首をこえています。和泉式部の歌は、先に上げた1首のみ。同時代の人にはそれほど評価されていなかったのでしょうか。あるいは和泉式部があまりにスキャンダラスな女性だったので、同時代の人間には反感のようなものがあったのでしょうか。

 和泉式部。父は越前守 大江雅致(おおえのまさむね)、母は越中守 平保衡(たいらのやすひら)のむすめ。977年頃に生まれました。
 父母ともに冷泉天皇中宮 昌子(しょうし)内親王に仕えていたことから、内親王邸で育ったようです。
 20歳のころに和泉守 橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚(和泉式部の名は、この夫 道貞の任国の「和泉」と、父の官名の「式部丞」に由来するようです。もちろん本名は不明)。二人の間に女児(小式部内侍:こしきぶのないし)が生まれます。

 そのころから、式部は、冷泉天皇の第三皇子 弾正宮為尊親王(だんじょうのみや、ためたかしんのう)と恋愛関係に陥ります。
 未婚・既婚、男女を問わず、複数の異性と交際することが許された時代ではありましたが、和泉式部の熱愛ぶりは、度を越していたようです。道貞は式部を離縁し、父も彼女を勘当しました。しかし、為尊親王は、26歳で夭折(1002年)。正妃は悲しみのあまり尼になりました。

 為尊親王の死に落ち込む式部のもとに弟の第四皇子 帥宮敦道親王(そちのみや、あつみちしんのう)が現れ、今度は敦道親王と恋愛関係に陥ってしまいます(この敦道親王との恋愛を綴ったものが『和泉式部日記』です)。敦道親王は式部を自邸に入れ、愛欲の生活に入ります。それを親王の正妃が怒り、邸を出て行ってしまうという事態にまでなりました。
 しかし、敦道親王との生活もわずか5年で終わりを迎えてしまいます。敦道親王も27歳の若さで亡くなってしまうのです(1007年)。

 1年の喪に服したのち、式部は一条天皇中宮 彰子(しょうし。藤原道長のむすめ)に娘の小式部内侍と共に仕えます(同僚に紫式部や赤染衛門がいました)。これが縁となって、30歳を過ぎたころ、20歳も年上の藤原保昌(ふじわらのやすまさ。道長の家司[けいし])と再婚します。1013年頃、丹後守となった夫とともに任国に下ります。そこでも様々な浮名を流し続けるという……

 和泉式部と関係があったらしい男性の名前を並べあげていくと、2人の夫(橘道貞・藤原保昌)と2人の皇子(為尊親王・敦道親王)の他に、源俊賢、源雅通、源頼信、藤原頼宗、道命阿闍梨などなど。名前を挙げられている男性だけでこれだけいるのですから、実際にはもっともっと多くの男性と関係があったのでしょう。藤原道長から「浮かれ女」と呼ばれたというのも、もっともな話です。
 結局、保昌とも離婚したらしく、小式部内侍にも先立たれ(1025年)、晩年をどう過ごしたのかは不明です。

 『拾遺和歌集』では1首のみでしたが、『拾遺和歌集』からおおよそ80年後に白河天皇の勅命にて作られた次の勅撰集にはなんと67首も選ばれています。2位の相模が40首。2位以下の歌人をダントツに引き離して堂々の1位。『後拾遺和歌集』を代表する歌人になりました。
 その67首中21首が恋の歌と、やはり恋の歌が多いです。 情感あふれる艶やかさが和泉式部の歌の魅力です。

『後拾遺和歌集』から和泉式部の代表歌を5首

1. 恋歌

黒髪のみだれも知らずうちふせば まづかきやりし人ぞこひしき

(訳)黒髪が乱れるのも気にせず臥せると、初めてこの髪をかきやってくれたあの人が恋しく思われる。

(巻十三 恋三 755)

 2. 恋歌

   男に忘れられて侍ける頃、貴布禰(きぶね)にまいりて御手洗(みたらし)川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる

君恋ふる心はちぢにくだくれど ひとつも失せぬ物にぞありける

(訳)あなたを恋しく思う心は千々に砕けていますが、そのかけらはひとつもなくならず、やはりあなたが恋しい。

(巻十四 恋四 801)

3. 恋歌

涙川おなじ身よりはながるれど恋をば消たぬものにぞありける

(訳)川のように流れる涙も恋の火も同じ身体から流れ出るけれど、涙の川では恋の火を消さないものであった。

(巻十四 恋四 802)

4. 神祇歌

もの思へば沢のほたるもわが身より あくがれ出づるたまかとぞ見る

(訳)思い悩んでいると、沢を飛ぶ螢の光も我が身から抜け出た魂かと見る。

(巻二十 雑六神祇 1162)

 この歌に対しては、伏拝のときと同じように、神様からの返歌がありますので、ついでに紹介します。返したのは、貴船明神。

5. 神祇歌

奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちる許(ばかり)ものな思ひそ

(訳)奥山に滾り落ちる滝の瀬の水の玉、そのように魂が散るほど思いつめるなよ。

(巻二十 雑六神祇 1163)

(てつ)

2003.4.8 更新
2005.8.19 更新
2020.2.17 更新

参考文献